昨日の残像と、消えない沈黙
三日間にわたる「嘘の婚約者」という狂騒曲は、パディントン駅のプラットホームで、唐突な静寂とともに幕を閉じた。
結局、マーガレット叔母は、最後まで朔夜のことを認めようとはしなかった。だが、その冷徹な審美眼をもってしても、二人の間に流れる「不協和音」が、単なる付け焼き刃の芝居ではないことを悟ったのだろう。彼女は最後に一度だけ朔夜を鋭く睨みつけると、「アリス、あなたの耳が、いつかこの男の冷たさに耐えられなくなる日が来たら、いつでも帰りなさい」と言い捨てて、列車に乗り込んだ。
走り去る列車の尾灯を、二人は無言で見送った。
「……終わったな」
朔夜が、喉を締め付けていたボウタイを乱暴に引きちぎるように外した。
肩の力を抜いた瞬間、三日間の緊張と、慣れない正装による疲労が一気に押し寄せてくる。
「……はい。……本当に、ありがとうございました。サクヤさん」
アリスが、深く頭を下げた。
ブローチの呪いから解放された彼女の顔には、本来の穏やかな、だがどこか寂しげな色が戻っていた。
数時間後。ベーカー街のガレージ。
朔夜は、窮屈なタキシードを脱ぎ捨て、いつもの着古したライディングジャケットに袖を通していた。革の重みと、染み付いたオイルの匂い。これが、自分にとって唯一、計算が狂わない「現実」だ。
傍らでは、アリスが小さな折りたたみ椅子に座り、ティーカップを両手で包んでいた。ガレージに流れるのは、クラシックではなく、整備用ライトのジジジという微かなノイズだけ。
「……嘘をついたのは、悪かったと思っているわ。叔母様にも、……そして、あなたにも」
アリスが、カップの中の茶柱を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「私の身勝手な『恋人のふり』というお願いが、あなたの時間をどれほど奪ってしまったか……。本当に、ごめんなさい」
朔夜は、ハヤブサのフロントフォークを磨く手を止めた。
日本で唯一信じた人が他の男を選んだあの日、自分の中に残ったのは「他者への期待はコストに見合わない」という冷めた結論だった。誰の隣にいても、結局は一人。その孤独をロンドンまで持ってきた。
だが、この三日間。
ホテルの庭園で、眠りに落ちた彼女を支えた時の腕の重み。
叔母の追求に対し、咄嗟に口をついて出た「彼女の音を守る」という言葉。
それは、彼が忌み嫌ってきた「人間らしい情緒」によるものだった。
「……今回の件で、お前に救われた『貸し』は、これで清算された」
朔夜は、ハヤブサのタンクをウエスで強く一拭きし、アリスの方を見ずに言った。
「だが……。お前が眠りの中で見ていたあの向日葵の原っぱ。あそこに置き去りにされても、俺には何のメリットもない。……お前がここで、不器用な調律を続けている方が、まだ俺の周辺環境としては安定している。……それだけだ」
それは、感謝でも愛の告白でもない。
ただ、彼女という存在を、自分の生活圏内の「定数」として認め始めたという、朔夜なりの最大限の歩み寄りだった。
「……ええ。私も、そう思うわ」
アリスは、その不器用な言葉の裏にある「拒絶の無さ」を感じ取ったのか、少しだけ、本当に少しだけ口角を上げて、冷めかけた紅茶を飲み干した。
夜も更け、アリスが自分の店へと戻った後。
朔夜は、独りでハヤブサに跨った。
セルを回すと、チタンマフラーが夜の静寂を切り裂くような咆哮を上げる。
彼はそのまま、あえて行き先を決めずにバイクを走らせた。
風が、自分の中に残っていたタキシードの窮屈な感触を、綺麗にさらっていく。
自分を受け入れる場所など、どこにもない。
その確信が、今回の三日間で覆されたわけではない。
ただ、ハヤブサを操る時にミリ単位の操作でバランスを取るように、彼女との「嘘の芝居」という極めて不安定な状態が、意外にも自分の心に、妙な平穏をもたらしていた。
「……非合理的だ」
ヘルメットの中で、彼は自嘲するように独り言を漏らした。
誰の特別にもなれないと諦めた男が、今、嘘で塗り固めた関係の余韻の中に、これまで感じたことのない「奇妙な居心地の良さ」を感じている。
ハヤブサのテールランプが、ロンドンの夜の深淵へと消えていく。
絆でも、愛でもない。
ただ、明日もまた、オイルの匂いと、少しばかり騒がしい隣人がいる。
それだけで、今は十分だった。




