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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第五章:サブウェイ・レクイエム ―亡霊の地下鉄(チューブ)と、銀の調律―
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名前の響きと、深夜の呼び出し

 ベーカー街のガレージに、いつもとは違う「音」が混じり始めていた。

 それは工具が金属と触れ合う音でも、リッターエンジンの脈動でもない。

「――サクヤ、お茶が入ったわよ。今日は少しだけ、シナモンを利かせてみたの」

 背後からかけられたその声に、ハヤブサのチェーン調整をしていた朔夜の指先が、微かに、だが明確に跳ねた。

 彼はウエスで手を拭い、ゆっくりと振り返る。そこには、湯気の立つマグカップを二つ持ったアリスが、当然のような顔で立っていた。

「……アリス。言ったはずだ。その呼び方は、あの三日間の芝居限定だと」

「ええ。でも、あの後から『ツチミカドさん』って呼ぼうとすると、なんだか音律が合わない気がして。サクヤ、っていう響きの方が、今のあなたには合っていると思うわ」

 アリスは悪びれる様子もなく、予備の折りたたみ椅子に腰を下ろした。

 朔夜は「非効率だ」と吐き捨てる準備をしていたが、彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられると、その言葉は喉の奥で消えた。

「……好きにしろ。呼び名など、個体を識別するための符号に過ぎん。……だが、外では控えるんだな。変な誤解を招く」

「ふふ、了解。サクヤ」

 確信犯的な微笑み。朔夜は鼻を鳴らしてマグカップを受け取った。

 口に含んだ紅茶は、彼女の言う通りシナモンの香りが鼻を抜け、連日の徹夜作業で凝り固まっていた思考を緩やかに解きほぐしていく。

 日本にいた頃、自分の名を呼ぶ声には常に「疎ましさ」や「義務感」が混じっていた。だからこそ、何の諂いもなく、ただ親愛だけを乗せて響く「サクヤ」という音は、彼にとってまだ慣れない、くすぐったいような異物だった。


 その穏やかな静寂を破ったのは、ガレージの入り口を激しく叩く音だった。

「ハロー、サクヤ! 準備はいい? ロンドンが君の『不機嫌な力』を求めているわよ!」

 現れたのは、王立怪異対策局ビューローのエージェント、アビゲイルだった。彼女はタイトなスーツにトレンチコートを羽織り、いつになく焦燥の色を浮かべていた。

「アビゲイルか。……ノックの回数が多い。それだけで、お前の持ってきた案件が面倒なものだと分かる」

「察しがいいわね。……今度は洒落にならないわ。深夜のノーザン・ライン(地下鉄北線)で、最終列車が乗客ごと『消えた』。幽霊列車なんて可愛いものじゃない、空間ごと消失したのよ」

 アビゲイルはタブレットを取り出し、監視カメラの映像を見せた。

 そこには、トンネルの奥へと吸い込まれるように消えていく列車の残像と、その後に残された、異様なほど濃い「黒い霧」が映し出されていた。

「場所は、廃駅になったオールド・ウィッチ駅の付近。空襲の記憶が溜まりやすい場所よ。今、地下鉄全線が止まっているけれど、このままだと異界の門が広がって、ロンドンの地下が丸ごと『あっち側』に持っていかれるわ」

 朔夜はマグカップを置き、鋭い目で映像を見つめた。

 空間の消失。それは単なる亡霊の仕業ではなく、大規模なレイラインの逆流、あるいは強力な未練が物理法則を書き換えている証拠だ。

「地下か。……ハヤブサを地下道に入れるのは、空間的に制約が多すぎる。……だが、徒歩では間に合わんか」

「ええ、だから君に頼んでいるのよ。あのバイクと、君の術式なら、消失した空間の『継ぎ目』を突破できるはず。……報酬は、ハヤブサの予備エンジン一基分、あるいはそれ相当のポンドでどう?」

 朔夜は一瞬、アリスの方を見た。彼女は心配そうに手を組み、唇を噛んでいる。

 

「……アリス。お前の耳で、この映像の『音』を聴いてみろ」

 朔夜はタブレットをアリスに差し出した。

 アリスは驚きながらも、静かに目を閉じ、映像から流れるノイズに意識を集中させた。

「……これ、……歌が聴こえるわ。とても悲しくて、懐かしい、家に帰るための歌」

「歌、だと?」

「ええ。でも、その歌のピッチが……どんどん崩れていってる。無理に引き伸ばされて、形を失っていくような……。聴いているだけで、胸がざわついて、自分たちがどこにいるのか分からなくなりそうな、嫌な響きよ」

 アリスの言葉に、朔夜は小さく頷いた。

 彼女が「音」で感じ取った変質は、彼が霊的な計算で導き出した「空間の崩壊」という結論を補強するものだった。

「霊的な質量が限界を超え、空間ごと摩耗している証拠だな。……アビゲイル、依頼を受ける。……ただし、一点だけ条件がある」

「何かしら? 高級なオイルでも要求する?」

「いや。アリスを、現地の地上管制に同席させろ。……地下の異界はノイズが酷い。俺の術を導くための『正しいピッチ』が、外から必要だ」

 アビゲイルは意外そうに眉を上げた。

 「孤独な異端児」として鳴らした朔夜が、他者の助力を、それも非術者の力を前提に条件を出したからだ。

「……わかったわ。アリス、あなたも準備して。ビューローの通信車両を用意させる」

「はい!」

 アリスが力強く頷き、朔夜を見た。

 朔夜は彼女から視線を逸らし、重いライディングジャケットを羽織る。

「勘違いするなよ、アリス。……お前を連れて行く方が、成功確率が〇・三パーセント向上すると判断しただけだ。非効率な二度手間を避けるための合理的な判断だ」

「ええ、分かっているわ。……行きましょう、サクヤ」

 名前を呼ばれ、朔夜の背中が微かに硬直した。

 彼は無言でヘルメットを被り、ハヤブサのセルを回す。

 猛禽の咆哮がガレージに響き渡る。

 地下深く、狂ったレクイエムを奏でる亡霊たちの元へ。

 「一人」で戦うことに慣れすぎた男が、初めて「誰かの声」を道標に、闇へと飛び込もうとしていた。


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