ハヤブサ、地下を穿つ
深夜、閉鎖されたオールド・ウィッチ駅。
地上にはビューローの巨大な通信車両が陣取り、無数のアンテナが霧の夜空を睨んでいる。車内ではアリスがヘッドセットを装着し、何十ものモニターに囲まれて座っていた。
「……サクヤ、聞こえる? 接続は良好よ。でも、地下からのノイズが少しずつ強くなっているわ」
『……ああ、聞こえている。そのまま基準値を保て。外れるようなら即座に指摘しろ』
インカム越しに返る朔夜の声は、ハヤブサのアイドリング音に混じって低く響く。
朔夜は今、地上から数階分降りた地下ホームにいた。暗闇の中、ハヤブサのヘッドライトが、錆びついた線路と湿ったコンクリートの壁を白く切り裂いている。
彼の周囲には、目視できないほどの薄い「黒い霧」が漂っていた。かつての空襲でこの駅に逃げ込み、そのまま帰らぬ人となった者たちの、数十年分の閉塞感。それが物理的な質量を伴って、空間を歪めているのだ。
「いい? サクヤ。ここから先は、地図にある『道』じゃないわ。音が捻じ曲がっている。あなたの右側から聞こえる風の音を信じないで。それは……過去の残響よ」
『了解した。方位磁石は既に死んでいる。お前の耳だけが頼りだ』
朔夜はハヤブサのギアをローに入れ、クラッチを繋いだ。
猛禽の咆哮がトンネル内に反響し、数十年分の静寂を暴力的に打ち砕く。
時速六十キロ、八十キロ、百キロ――。
通常、地下鉄のトンネル内で出すべきではない速度まで加速する。だが、通常の速度では、空間の継ぎ目に捕まり、二度と戻れなくなる。
「サクヤ、来るわ! 前方三百メートル、音が……消える場所がある!」
『――土御門流・縮地!』
朔夜が左手で印を結び、ハヤブサのタンクに霊力を流し込む。瞬間、ハヤブサの車体が銀色の光に包まれ、空間の歪みを強引に押し広げた。視界がぐにゃりと歪み、景色が色彩を失う。
突破した先は、見慣れた地下鉄の風景ではなかった。
線路は空中に浮き、壁には無数の「帰りたい」という文字が、向日葵の蔦のように這い回っている。そしてその中央には、消えたはずの最終列車が、半分異界に飲み込まれた状態で停止していた。
「……見つけた。アビゲイル、列車を確認。生存者の反応は微弱だが、まだ繋がっている」
「サクヤ、気をつけて! 列車の周りの音が、……悲鳴に変わったわ!」
アリスの警告と同時に、列車の影から巨大な「黒い腕」が幾本も伸びてきた。
それは、家に帰れなかった者たちの未練が形を成した、巨大な執念の塊。
「……フン。これだけの質量、まともに相手をすれば日が暮れるな。アリス、その『狂った音』を打ち消すための周波数を割り出せ。俺が術式で増幅する」
「周波数……? 待って、……今、聴き取るわ。……この場所を縛っている歪みは、もっとずっと高い……突き刺さるような音。サクヤ、あなたのハヤブサの音をもっと鋭く、一定の高さまで引き上げて!」
アリスは必死にヘッドセットを抑え、耳を澄ませる。
「もっと上よ。あと少し……あ、そこ! その高さでキープして!」
『……何回転だ』
「ええと、……分からないわ、そんなの! でも、今、あなたのバイクが奏でている音よりも、あと二音分くらい高いところよ!」
朔夜はヘルメットの中で舌打ちをした。音階で言われても直感的には分からない。だが、彼はエンジンの咆哮を「物理的な振動」として全身で理解している。
『……二音分だと? ――なら、九千回転から一気に一万二千まで叩き上げる。アリス、耳を塞いでいろ。……術式展開、音響結界・銀鴉!』
朔夜はハヤブサのアクセルを無慈悲に開け放った。
タコメーターの針が跳ね上がり、排気音が「咆哮」から「絶叫」へと変わる。超高回転域に達したエンジンのバイブレーションが、朔夜が空間に配置した符を共鳴させ、目に見える銀色の波動となって周囲に放射された。
「――そこよ! その音!」
アリスの叫びと、ハヤブサの悲鳴のような排気音が重なった瞬間。
空間を埋め尽くしていた黒い腕が、ガラスが砕けるような音と共に霧散した。
「……ハッ、計算通りだ。九千五百じゃ足りなかったが、一万二千なら空間の強度を上回る。非効率な力技だがな」
朔夜はハヤブサをドリフトさせながら列車の正面で停止させた。
全身を襲う激しい振動と熱。かつて誰にも理解されなかった彼の「鋭さ」が、今はアリスの声というナビゲーションを得て、誰かを救うための刃へと変わっている。
『アリス。お前の耳のおかげで、一秒短縮できたぞ』
「……お礼にしては、少しだけトゲがあるわね。サクヤ」
インカム越しに聞こえる彼女の声に、朔夜はふっと息を漏らした。
だが、異界の最奥。列車の底から、さらに深い、重低音の「嘆き」が響き始めた。




