亡霊の終着駅
列車の底から響き渡る重低音の「嘆き」は、やがて地下トンネルそのものを震わせる地鳴りへと変わった。
線路を覆うアスファルトが剥がれ落ち、そこから噴き出したのは、どろりとした黒い泥のような霊気の奔流。それは、家に帰り着けなかった無数の魂が、長い年月の果てに溶け合い、ひとつの巨大な意思へと変質した「亡霊の集合体」だった。
「……サクヤ、聞こえる!? 音が……音が重なりすぎて、もうピッチなんて判別できない! 街中の悲鳴を一つに固めたような、壊れた不協和音が来るわ!」
地上車両から響くアリスの声に、これまでにない切迫感が混じる。
朔夜は、ハヤブサを列車の入り口を守るように旋回させ、正面からその「泥」を睨みつけた。
『アリス、落ち着け。……耳を休ませていい。ここから先は、音の理屈じゃ通じない「泥仕合」だ。お前はただ、俺が戻るための「出口の音」だけを鳴らし続けていろ』
彼はハヤブサを降り、サイドスタンドを立てる。
タキシードの窮屈さから解放された今の彼は、いつにも増して動きが鋭い。朔夜は懐から、一際古びた、銀の糸で縁取られた符を取り出した。
「――土御門の忌み子が命ずる。お前たちの『未練』は、この場所には収まらん」
押し寄せる黒い泥が、朔夜の足を飲み込もうと迫る。かつて日本で、「お前がいると空気が冷える」と親族から遠ざけられた彼の冷徹な霊気が、今は異界の熱量を奪う盾となっていた。
「……誰にも受け入れられないのが、それほど苦しいか。……なら、俺の孤独を分けてやる。これなら、お前たちも少しは静かになるだろう」
自嘲気味な呟きと共に、朔夜は符を地面に叩きつけた。
「土御門流・極意・銀鴉千陣」。
彼の周囲から、無数の銀色の鴉が具現化し、黒い泥を食い散らし始める。だが、亡霊の数は文字通り数万規模だ。一羽の鴉が泥を啄めば、それ以上に巨大な波が、朔夜を押し包もうとする。
「サクヤ! ダメよ、あなたの音が……冷たく、硬くなりすぎているわ! そんな風に自分を削ったら、あなたが消えちゃう!」
ヘッドセット越しの叫び。アリスには、朔夜が自分の「孤独」を霊的な触媒にして、無理やり亡霊を凍りつかせようとしているのが手に取るように分かっていた。それは、自らの心を永久凍土に変えるような自壊の術だ。
『……黙っていろ。……これが、俺にできる唯一の「受け入れ方」だ』
意識が混濁し始める。
かつて一方通行の恋に終わった、あの日の雨の匂いが鼻を掠める。自分を受け入れてくれる場所なんて、どこにもない。だから、このまま闇に溶けても構わない。そんな諦念が、術の威力をさらに高めていく。
だが、その冷え切った意識の中に、場違いなほど温かく、柔らかな音が響いた。
――トントン、と、指先で木を叩くような、規則正しいリズム。
「サクヤ、聴いて。……私の、心拍を。あなたは一人じゃない。私が、ここにいるわ」
アリスが、マイクに向かって自分の胸元を叩いているのだ。
その稚拙で、しかしあまりに生命力に満ちたリズムが、凍りつきかけていた朔夜の回路を強引に起動させた。
「……っ。……ああ、うるさい女だ。非効率極まりない」
朔夜は目を見開き、奥歯を噛み締めた。
自分を信じる者がいない世界なら、独りで消えるのも容易かった。だが、あろうことか地上で、自分の帰還を信じてリズムを刻んでいる「隣人」がいる。その存在が、今の彼には、死よりも抗いがたい拘束力を持っていた。
「――全出力。……ハヤブサ、お前の咆哮を貸せ!」
朔夜は再びハヤブサに飛び乗り、最大までスロットルを回した。
後輪が火花を散らしながら異界の石畳を削る。アリスのリズムに合わせて、彼は銀の鴉たちに「熱」を与えた。孤独を凍らせるのではなく、すべてを焼き尽くす一閃へと変える。
「――土御門・昇天陣! 帰りたいなら、夜明けの空へ行け!」
銀色の閃光が、地下トンネルを白一色に染め上げた。
数万の亡霊たちが、アリスのリズムに導かれるように、光の粒となって天へと昇っていく。
静寂が戻った。
そこには、異界の皮を脱ぎ捨てた、ただの埃っぽい地下の廃駅と、息を切らした一人の男、そして満身創痍のハヤブサだけが残されていた。
『……アリス。……拍子が、ずれているぞ。落ち着け』
震える声で呼びかけると、インカムの向こう側で、アリスが泣きながら笑う気配がした。
「……おかえりなさい、サクヤ」
その名前を呼ばれる感覚に、朔夜はもう、身体を強張らせることはなかった。




