地上への帰還、あるいは微睡み
異界が霧散し、地下には湿ったコンクリートと鉄錆の匂いが戻ってきた。
停車した列車の窓からは、解放された乗客たちが怯えながらも、現実の景色を確認し始めている。救援部隊が到着するサイレンの音が、遠くのトンネルから反響してきた。
『……アビゲイル。生存者の確保を。……俺は、先に上がる』
通信を切り、朔夜は重い足取りでハヤブサを地上へと走らせた。
非常用のスロープを駆け上がり、ロンドンの冷たい夜気に触れた瞬間、張り詰めていた霊力の糸がプツリと切れた。
地上車両の前。ヘッドセットを外したアリスが、駆け寄ってくるのが見える。
「サクヤ!」
彼女の呼ぶ声に、朔夜はハヤブサを止め、サイドスタンドを立てるのがやっとだった。ヘルメットを脱ぐと、その顔は蒼白で、額には冷や汗が滲んでいる。
「……遅い。……夜明けまで、あと三十分しかないぞ」
毒づこうとした唇は、言葉を紡ぐだけの気力を残していなかった。
ふらりと揺れた朔夜の身体を、アリスが咄嗟にその細い肩で受け止めた。
「お疲れ様。……よく、帰ってきてくれたわね」
日本にいた頃、戦いを終えた後に待っていたのは、冷徹な成果報告か、腫れ物を扱うような親族の視線だけだった。しかし今、自分の身体を支えているのは、オイルの匂いではなく、アリスの髪から漂う微かな紅茶の香りと、彼女の心臓の鼓動だ。
「……触るな。ライダースの革が、お前の服を汚す」
「そんなの、後で洗えばいいわ。それより今は、私の音に寄りかかっていて」
アリスは、地下で刻み続けたあの一定のリズムを、今度は朔夜の背中を優しく叩くことで伝え続けた。
自分の孤独を触媒に、自らを削って戦った代償。凍てつきかけていた朔夜の心象風景に、アリスの手の熱が少しずつ、非効率なほどゆっくりと溶け込んでいく。
数時間後。ベーカー街、いつものガレージ。
夜明けの光が、埃の舞う室内に差し込んでいた。
朔夜は予備の椅子に深く沈み込み、アリスが淹れた、いつもより濃いめの紅茶を啜っていた。傍らでは、激戦を物語るように泥を被ったハヤブサが、静かにエンジンを冷ましている。
「……今回の報酬、アビゲイルにはハヤブサのパーツではなく、現金で支払わせることにした。お前の店の、新しい調律道具でも買えばいい」
視線を逸らしたまま、朔夜が言った。彼なりの、礼の代わりだった。
「いいえ、それはあなたが自分のために使って。……私への報酬は、もう貰ったから」
「……何だと。俺は、お前に何も渡していないぞ」
「名前よ。……サクヤって呼ぶたびに、あなたが少しだけ私の方を見てくれるようになった。それが、私にとっては一番の対価だわ」
アリスは、悪戯っぽく、それでいて慈しむような笑みを浮かべた。
「……本当にお前は、合理的という言葉を知らないのか」
朔夜はそう言いながら、手元に残った紅茶の温かさを確かめるように、マグカップを強く握った。
「誰かの隣に立つ資格はない」と信じ、この街へ逃げてきたはずの彼。
しかし今、彼のガレージには、自分の名前を当然のように呼ぶ声がある。
日本で失った「居場所」という幻想。
それが、ロンドンの冬空の下、たった一人の「隣人」の手によって、全く別の形で再構築されようとしている。
まだそれは、愛と呼ぶにはあまりに不器用で、絆と呼ぶにはあまりに脆い。
けれど、次の依頼が来るまでの間、この騒がしい沈黙に浸ることを、朔夜は自分に許し始めていた。
「……サクヤ? 寝ちゃったの?」
返事はない。
椅子の背もたれに頭を預け、朔夜は深い眠りに落ちていた。
ハヤブサの傍らで、一人の男がようやく見つけた、短い、けれど確かな安息の時間だった。




