アーモンドの花と、異邦の影
三月下旬、ロンドン。
凍てつくような冬がようやく息を潜め、ベーカー街の公園にはアーモンドの花が咲き始めていた。日本の桜によく似た、淡い薄紅色の花弁。風に舞うその様は、観光客にとっては優雅な春の訪れだろうが、ガレージの主である朔夜にとっては、どんな呪いよりも忌々しい光景だった。
「……チッ。どいつもこいつも、浮かれやがって」
朔夜はガレージの入り口を乱暴に閉め、シャッターを下ろした。
外の光を遮断した室内で、作業灯の無機質な灯りだけがハヤブサの銀の車体を照らしている。彼はいつものように工具を手に取ったが、その動きはどこか精彩を欠いていた。
脳裏にこびりついて離れないのは、数年前の、日本の春だ。
自分を唯一受け入れてくれると信じた女性。彼女が、自分ではない男の隣で、幸福そうに微笑んでいたあの日。その背景にも、今と同じような薄紅色の花が、残酷なほど美しく咲き乱れていた。
その事が決定打となり、朔夜は日本を捨てた。自身を土御門一族の冷たい視線から庇おうとしていた弟の蓮真も、何もかも放り出すかたちで。
「……サクヤ? またそんな暗いところで作業しているの?」
不意に、シャッターの隙間からアリスの声がした。
彼女は、春らしい若草色のカーディガンを羽織り、両手にはいつものマグカップを抱えている。
「……アリスか。入り口は閉めたはずだぞ」
「鍵はかかってなかったわ。ほら、今日はアッサムにミルクをたっぷり入れたの。……少し、顔色が悪いわよ。また徹夜?」
アリスが近づき、彼の横顔を覗き込む。
かつての朔夜なら「余計な世話だ」と跳ね除けていただろう。だが、今の彼は、差し出されたカップの温かさを無意識に求めていた。
「……春の風は、霊的なノイズが多い。不愉快なだけだ」
「そう? 街のみんなは、あのアーモンドの花を見て、ようやく冬が終わったって喜んでいるのに。……サクヤには、何か別の色に見えているのね」
アリスは彼の頑なな沈黙を否定せず、ただ隣に椅子を引いて座った。
「サクヤ」という呼び名は、今ではすっかり彼女の口に馴染んでいる。彼女の奏でるその名前の響きだけが、朔夜の中に澱む過去の泥を、僅かに浄化してくれるような気がした。
「……アリス。もし、俺に何かあったら……」
「え?」
「……いや、なんでもない。非効率な仮定だ。忘れろ」
言いかけて、朔夜は言葉を飲み込んだ。
自分の背後にある「土御門」という巨大な影が、この平穏なガレージまで伸びてくるはずがない。そう自分に言い聞かせた。
同じ頃。
アリスの経営する楽器店『アンティーク・ノート』に、一人の男が立っていた。
仕立ての良い紺色のスーツ。整えられた髪。一見すると、仕事帰りのエリートサラリーマンのように見えるが、その男から漂う空気は、春の陽気とは対極にある「無」だった。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
店番をしていたアルバイトの学生が声をかけるが、男は答えず、壁に掛けられた古いバイオリンをじっと見つめている。その目は、楽器を愛でているのではなく、まるで「獲物の喉元」を値踏みしているかのようだった。
「……いい『音』だ。だが、少々ノイズが混じっている。……不必要な執着という名の、ね」
男はゆっくりと振り返った。その顔には、貼り付けたような完璧な微笑みが浮かんでいる。
「失礼。私は九条という。……この店のオーナーは、アリスという女性だと聞いているが、お会いできるかな?」
「オーナーは今、少し出かけておりまして。……あ、あちらから戻ってきました」
学生が店の入り口を指差すと、そこにはちょうど、ガレージから戻ってきたアリスが立っていた。
「……私に、何か御用でしょうか?」
アリスは足を止めた。
彼女の鋭敏な感覚が、目の前の男から発せられる「音」を捉える。
それは、朔夜が持つ「鋭くも熱い不協和音」とは全く違う、深海のように底冷えのする、無機質な静寂だった。
「お初にお目に掛かります、アリスさん。私は、サクヤ……土御門 朔夜の、旧い知人です」
九条と名乗った男は、優雅に一礼した。
その口から出た「サクヤ」という名前の響きに、アリスは激しい違和感を覚える。彼女が呼ぶ時の温度が、そこには一切含まれていなかったからだ。
「……サクヤの、お知り合い……?」
「ええ。彼が日本に残してきた……いえ、『捨ててきた』家族や責務。それらについて、少しお話しに参りました。……ああ、誤解しないでいただきたい。私は、彼がこのロンドンでどのような『新しい玩具』を見つけたのか、興味があっただけですから」
九条の瞳が、爬虫類のようにアリスを捉える。
「サクヤは、本来こちら側の人間だ。……あなたのような、無垢な旋律の中にいるべき男ではない」
アリスは、背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。
ロンドンの春の空気が、一瞬にして、遠い異国の冷たい霧に塗り替えられていく。
それは、朔夜が最も恐れていた「過去」からの、明確な宣戦布告だった。




