冷たい伝言
アリスが楽器店のカウンターで九条と対峙していたその時、ガレージの朔夜は、ハヤブサのフロントフォークを磨く手を止めていた。
胸の奥で、嫌なざわつきが消えない。まるで、かつて自分を縛り付けていた土御門の「結界」の中に、再び引きずり込まれるような感覚。
「……アリス、遅いな」
彼女が去ってから三十分以上が経過していた。紅茶の入っていたマグカップは、既に温もりを失っている。朔夜はライダースを羽織ると、重い腰を上げた。
楽器店の中には、重苦しい沈黙が立ち込めていた。
九条は懐から一通の封筒を取り出し、それを指先で弄びながらアリスを見つめている。
「……サクヤは、本来こちら側の人間だ……ですって?」
アリスは震える声を抑え、毅然と男を見返した。
「彼は、誰の所有物でもないわ。彼自身が、自分の意志でこのロンドンを選んだの。……その『音』を聴けば分かる。彼は今、必死にここで生きようとしている」
「生きようとしている、か。皮肉なものですね」
九条は鼻で笑い、封筒をカウンターに置いた。
「彼がここで自由を享受すればするほど、日本に残された者がその『ツケ』を払わされる。……例えば、彼の弟の蓮真のように。不完全な兄を持った弟は、今や土御門本家の厳しい監視下にあり、次期当主としての重圧に心身を削っている」
「……蓮真、くん?」
「サクヤが土御門の名を捨てきれない理由はそこにある。……アリスさん、彼にこの手紙を。そして伝えてください。『逃亡の時間は終わった。弟を救いたければ、春が終わるまでに答えを出せ』と」
九条が背を向け、店のドアに手をかけたその時。
カラン、というベルの音と共に、ドアが外から荒々しく開かれた。
「――何の答えだと?」
現れたのは、逆光を背負った朔夜だった。
その瞳は、凍てつく冬の海のように鋭く、殺気立っている。
「……お久しぶりですね、朔夜様。いえ、今は『サクヤ』でしたか」
九条は、動じることなく薄笑いを浮かべた。
「ロンドンの空気は随分と甘いようだ。……あの欠陥品と蔑まれていた男が、今や一丁前に女を守る騎士のつもりですか?」
「九条。……相変わらず、へどが出るような術だな。土御門の犬が、何の用でここまで嗅ぎ回りに来た」
朔夜の一歩が、店内の空気を物理的に圧縮する。
しかし九条は、慣れた手つきで懐から小さな「鈴」を取り出した。それは、土御門の術式を込めた通信用の呪具。
「用件はアリスさんに預けました。……蓮真様が、あなたに会いたがっていますよ。……物理的に動けなくなる前に、ね」
朔夜の表情が、一瞬で凍りついた。
「蓮真がどうした」と問い詰める前に、九条は煙のように気配を消し、霧の向こうへと消えていった。
「サクヤ……!」
アリスが駆け寄り、彼の腕を掴む。
朔夜の身体は、ハヤブサの冷たいフレームのように強張っていた。カウンターに置かれた一通の手紙。そこには、幼い頃に二人で交わした、彼らだけの隠し紋が刻印されていた。
「……アリス。……あいつが、何かお前に言ったか」
朔夜の声は低く、震えていた。
アリスは、九条が残した「捨ててきた家族」という言葉が、どれほど深く朔夜の心に楔を打ち込んでいるかを痛感した。
「……蓮真くんのこと。……サクヤを連れ戻すための道具に、彼を使おうとしているみたい」
朔夜は手紙を掴み、力任せに握りしめた。
春のロンドン。アーモンドの花が舞う穏やかな午後は、終わりを告げた。
日本から届いたのは、拒絶ではなく、逃げ場を奪うための呪縛。
愛車でどこまで遠くへ逃げても、血という名の鎖が、容赦なく彼の背後から伸びていた。




