隠し紋の重圧
ガレージに戻った朔夜は、一度もアリスと目を合わせなかった。
彼は作業台に手紙を叩きつけると、震える手で封を切った。中から現れたのは、和紙に記された、見覚えのある端正な筆致。
『兄さん。ロンドンの春はどうですか。僕は、相変わらずです』
その一行目を見ただけで、朔夜の視界が歪んだ。
蓮真。土御門の「正道」を歩むことを期待され、出来損ないの兄の分まで重圧を背負わされた、たった一人の弟。
「……バカが。こんなものを、あいつらに書かされやがって」
文面は近況報告を装っているが、文字の端々に霊的な揺らぎがある。九条ら「影」の手によって、蓮真の霊力を媒介にした呪印が仕込まれているのだ。この手紙を読み進めるほどに、朔夜と蓮真のパスが繋がり、本家に居場所を特定される。あるいは、蓮真にさらなる負荷がかかる仕組みだろう。
「サクヤ、その手紙……」
背後でアリスが不安げに声をかける。
「……寄るな。これは俺の問題だ。……お前には関係ない」
突き放すような口調。しかし、その声は以前の冷徹さではなく、怯えを隠そうとする子供のようだった。
朔夜はハヤブサのシートに乱暴に腰掛け、拳でタンクを叩いた。
「日本にいた時も、俺は結局何も守れなかった。……想っていた女一人、自分の居場所一つ。……今度は蓮真だ。俺が逃げたせいで、あいつが本家の『部品』にされようとしている」
ハヤブサの銀色のタンクに、朔夜の苦悶に満ちた顔が映る。
このバイクで、海を越え、大陸を横断し、地の果てまで逃げてきたつもりだった。だが、どれだけアクセルを開けても、心の中に巣食う「無力感」という重りからは逃げきれていなかったのだ。
「そんなことないわ、サクヤ」
アリスが、拒絶を恐れずに一歩踏み込んだ。彼女は、朔夜が握りしめている手紙ではなく、彼の震える指先にそっと自分の手を重ねた。
「……アリス、言ったはずだ。触るなと」
「嫌よ。今のあなたの音、聴いていられないくらいボロボロだもの。……あなたが守れなかったんじゃない。あの家が、あなたから奪ったんでしょ? 蓮真くんが本当に望んでいるのは、あなたが日本に戻ることなの?」
朔夜は言葉を失った。
手紙の最後の一行。そこには、呪印の隙間を縫うように、蓮真自身の意志で書かれたであろう微かな文字があった。
『兄さん。……どうか、止まらないで』
それは、助けを求める叫びではなく、兄の自由だけを願う祈りだった。
「……クソっ……!」
朔夜は天を仰いだ。
その時、ガレージの外でアーモンドの花びらが激しく舞い上がった。
春の嵐ではない。人為的な、霊力の渦。
「九条……。まだ、近くにいやがったか」
朔夜はアリスを自分の背後に突き飛ばすと、ハヤブサのキーを回した。
イグニッションが鳴り、猛禽が目覚める。
「アリス、そこにいろ。……いいか、一歩も出るなよ」
「サクヤ! 行くつもりなの!?」
「逃げるのは終わりだ。……弟の祈りを踏みにじる奴らを、俺のやり方で黙らせてくる。……お前が信じた、俺の『音』でな」
ヘルメットを被る直前、朔夜は一瞬だけ、アリスの方を振り返った。
その瞳には、過去の影に怯える男ではなく、大切なものを守るために牙を剥く、一人の術者の光が宿っていた。
ハヤブサがロンドンの夜へと飛び出す。
背後に舞う薄紅色の花びらを、漆黒の排気音が情け容赦なく切り裂いていった。




