夜明けのアーモンド・ブロッサム
ハヤブサが駆け抜けるのは、テムズ川沿いの霧深い通りだった。
前方を走る黒いセダン。九条が放つ陰湿な霊気が、追跡する朔夜の視界を歪ませる。街灯の光が薄紅色に滲み、まるでロンドンの夜が、忌々しい日本の桜並木へと変貌していくような錯覚に陥る。
『兄さん。……どうか、止まらないで』
朔夜の頭の中で、蓮真の言葉がリフレインする。
逃げることは、弱さではない。止まることこそが、自分を信じて送り出した弟への最大の裏切りだ。
「――土御門の犬が。俺の道を、これ以上塞ぐんじゃねえ!」
朔夜はハヤブサを加速させ、セダンの横へと並びかけた。
九条が後部座席の窓を開け、印を結ぶ。瞬間、車中から数柱の「式神」が飛び出し、実体化した黒い鎖となってハヤブサの車輪に絡みつこうとする。
「無駄ですよ、サクヤ。……その鉄の塊が、いつまで土御門の呪縛に耐えられるかな?」
「こいつはただの鉄じゃねえ。……俺の意志だ!」
朔夜は左手をハンドルから離し、空中で鋭く紋を綴った。
「土御門流・転位術・銀鴉!」
ハヤブサの排気音に霊力を乗せ、物理的な振動を術式へと変換する。絡みつこうとした鎖が、高周波の共鳴によって火花を散らしながら砕け散った。
逃げ場を失った九条のセダンが、倉庫街の行き止まりで急ブレーキをかけた。
朔夜はハヤブサをスライドさせ、九条の正面で停止する。エンジンを止めず、アイドリングの鼓動を響かせたまま、彼はヘルメットを脱いだ。
「サクヤ。……本気で、本家に楯突くつもりですか。蓮真様の命がどうなってもいいと?」
「蓮真は、俺が連れ戻されることなんて望んじゃいねえ。……あいつが守ろうとしたのは、俺の『今』だ。それを踏みにじるお前を、俺は絶対に許さねえ」
九条が嘲笑い、懐から大量の符をばら撒いた。
周囲の空間が急速に凍りつき、薄紅色の花弁が、鋭い氷の刃となって朔夜を襲う。
だが、その冷徹な結界の中に、地上からの通信が割り込んだ。
『サクヤ! 聴こえる!?』
アリスの声だ。ガレージに残したはずの彼女が、通信機を通じて叫んでいた。
『ダメ、サクヤ! そっちに行っちゃダメ! あなたの音が……どんどん遠くの、冷たい場所へ引きずられていってる!』
「……アリス。……引っ込んでいろと言ったはずだ」
『嫌よ! 今のあなたは、ハヤブサに乗っているのに、心がここにいない! 聴いて、サクヤ! 今、あなたの周りで鳴っているのは、日本の桜の音じゃない! ロンドンの、冷たくて、でも確かな風の音よ!』
アリスは、ガレージのマイクに向かって、窓の外の風の音を、そして自分の心拍を伝え続けた。
「……ロンドンの、風……」
朔夜は目を閉じ、深く息を吐いた。
過去の女性への未練。日本の桜への嫌悪。それらが作り出す幻影を、アリスの奏でる「今の音」が、霧散させていく。自分が今、立っているのは日本の土御門ではなく、ベーカー街のガレージの延長線上だ。
「――術式解体。……さらばだ、土御門の『昨日』」
_ 朔夜がハヤブサのスロットルを全開にした。
一万三千回転。限界を超えた咆哮が、アリスの声という道標を得て、九条の結界を内側から爆砕する。
飛び散る氷の刃。崩れ落ちる九条。
その光景は、まるで長すぎた冬が、一瞬の閃光によって終わりを告げたかのようだった。
夜明け。
_ ガレージに戻った朔夜を、アリスは一晩中、入り口で待ち続けていた。
ハヤブサから降り、ふらつく足取りで歩く朔夜に、彼女は何も言わずに駆け寄り、その身体を抱き止めた。
「……汚れると言っただろう。……オイルと、術の残り香で、ボロボロだ」
「いいの。……おかえりなさい、サクヤ」
朔夜は、アリスの肩に顔を埋めた。
日本から届いた手紙は、九条の敗北と共に灰となって消えた。けれど、蓮真の想いだけは、朔夜の胸の中に確かな熱として残っている。
「……アリス。……アーモンドの花は、もう散ったか」
「いいえ。まだ少しだけ、咲いているわよ。……今度は一緒に、見に行かない?」
朔夜は、自分を呼ぶその優しい旋律に、ようやく微かな微笑みを返した。
「土御門」という重い姓を背負った男は、今、このベーカー街で、ただの「サクヤ」として、春の光の中に立っていた。




