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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第六章:メモリー・オブ・チェリーブロッサム ―薄紅の追憶と、招かれざる刺客―
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ベーカー街の淡い紅

 九条との死闘から数日後。ロンドンを覆っていた不自然な冷気は去り、春の太陽が穏やかに街を照らしていた。

 ベーカー街からほど近いリージェンツ・パーク。その並木道には、満開を少し過ぎたアーモンドの花が、薄紅色の帯となって続いていた。

「……まったく。わざわざハヤブサを降りてまで、やることか」

 朔夜は、ライダースジャケットのポケットに手を突っ込み、少し照れくさそうに空を仰いだ。隣を歩くアリスは、白いピクニックバスケットを抱え、弾むような足取りで歩いている。

「そんなこと言わないの。サクヤだって、ガレージを出る時、少しだけ嬉しそうだったじゃない」

「……お前が何度も誘うから、少し付き合ってやろうと思っただけだ。これ以上押し問答を続けるのも、非効率だからな」

 口調こそ淡々としているが、その声に以前のような険しさはない。朔夜の歩調は、アリスのそれに自然と合わせられていた。かつて日本の桜の下で、置いていかれる側の孤独に震えていた彼とは違う。今の彼は、自らの意思で、この穏やかな「色」の中に踏み込んでいた。


「ほら、あそこのベンチが空いてるわ!」

 アリスが指差したのは、大きなアーモンドの木の下にある、少し古びた木製のベンチだった。風が吹くたび、淡い花びらが粉雪のように舞い落ち、アリスの柔らかな金髪に寄り添う。

「……サクヤ。……これ、召し上がれ」

 バスケットから取り出されたのは、彼女が朝から用意したサンドイッチと、保温ポットに入った紅茶だった。

「……外で飯を食うなんて、いつ以来だろうな。砂が混じっても知らんぞ」

「ふふ、大丈夫よ。ほら、一口食べてみて」

 差し出されたサンドイッチを、朔夜は観念したように受け取った。丁寧に耳が落とされたそれは、ロンドンの洗練された味というよりは、どこか家庭的な、不器用な温もりがした。

「……悪くない。……案外、まともな味だ」

「もう、一言多いんだから」

 アリスは満足げに微笑むと、自分も紅茶を啜り、舞い散る花びらを見つめた。

「ねえ、サクヤ。……日本の桜も、こんな風に綺麗なの?」

 その問いに、朔夜の動きが僅かに止まった。


 かつて彼にとって、桜は「絶望の象徴」だった。選ばれなかった自分と、守れなかった約束を思い出させるための装置。だが、アリスの隣で眺めるこのアーモンドの花は、不思議と彼の胸を刺さない。

「……似ているが、違うものだ。あちらはもっと、目が眩むような白さを孕んでいる。だが……」

 朔夜は、自分の肩に落ちた花びらを指先で摘み取った。

「……このロンドンの花は、少しだけ音が『軽い』。……そうだな、嫌いじゃない」

 それは、朔夜なりの最大限の肯定だった。

 彼は、かつて愛した女性の幻影を完全に消したわけではない。しかし、その記憶を「呪い」ではなく、遠い過去の「一部」として、この風の中に放流し始めていた。

「サクヤ。……来年も、また見に来ましょうね。その時は、もっと美味しい紅茶を淹れるから」

「……鬼が笑うぞ。一年後の予定など、整備スケジュールにも入っていない」

 そう言いながらも、朔夜はポットから注がれた二杯目の紅茶を、ゆっくりと口に運んだ。

 

 薄紅色の木漏れ日の中。

 不器用な術者と、耳の良い調律師。

 二人の間に流れる時間は、ハヤブサの加速力とは正反対の、あまりに緩やかで、確かな春の音を奏でていた。

「……サクヤ。鼻の頭に、花びらがついてるわよ」

「――触るな。……自分で取る」

 慌てて顔を背ける朔夜の耳が、僅かに赤くなっているのを、アリスは見逃さなかった。


挿絵(By みてみん)

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