ベーカー街の淡い紅
九条との死闘から数日後。ロンドンを覆っていた不自然な冷気は去り、春の太陽が穏やかに街を照らしていた。
ベーカー街からほど近いリージェンツ・パーク。その並木道には、満開を少し過ぎたアーモンドの花が、薄紅色の帯となって続いていた。
「……まったく。わざわざハヤブサを降りてまで、やることか」
朔夜は、ライダースジャケットのポケットに手を突っ込み、少し照れくさそうに空を仰いだ。隣を歩くアリスは、白いピクニックバスケットを抱え、弾むような足取りで歩いている。
「そんなこと言わないの。サクヤだって、ガレージを出る時、少しだけ嬉しそうだったじゃない」
「……お前が何度も誘うから、少し付き合ってやろうと思っただけだ。これ以上押し問答を続けるのも、非効率だからな」
口調こそ淡々としているが、その声に以前のような険しさはない。朔夜の歩調は、アリスのそれに自然と合わせられていた。かつて日本の桜の下で、置いていかれる側の孤独に震えていた彼とは違う。今の彼は、自らの意思で、この穏やかな「色」の中に踏み込んでいた。
「ほら、あそこのベンチが空いてるわ!」
アリスが指差したのは、大きなアーモンドの木の下にある、少し古びた木製のベンチだった。風が吹くたび、淡い花びらが粉雪のように舞い落ち、アリスの柔らかな金髪に寄り添う。
「……サクヤ。……これ、召し上がれ」
バスケットから取り出されたのは、彼女が朝から用意したサンドイッチと、保温ポットに入った紅茶だった。
「……外で飯を食うなんて、いつ以来だろうな。砂が混じっても知らんぞ」
「ふふ、大丈夫よ。ほら、一口食べてみて」
差し出されたサンドイッチを、朔夜は観念したように受け取った。丁寧に耳が落とされたそれは、ロンドンの洗練された味というよりは、どこか家庭的な、不器用な温もりがした。
「……悪くない。……案外、まともな味だ」
「もう、一言多いんだから」
アリスは満足げに微笑むと、自分も紅茶を啜り、舞い散る花びらを見つめた。
「ねえ、サクヤ。……日本の桜も、こんな風に綺麗なの?」
その問いに、朔夜の動きが僅かに止まった。
かつて彼にとって、桜は「絶望の象徴」だった。選ばれなかった自分と、守れなかった約束を思い出させるための装置。だが、アリスの隣で眺めるこのアーモンドの花は、不思議と彼の胸を刺さない。
「……似ているが、違うものだ。あちらはもっと、目が眩むような白さを孕んでいる。だが……」
朔夜は、自分の肩に落ちた花びらを指先で摘み取った。
「……このロンドンの花は、少しだけ音が『軽い』。……そうだな、嫌いじゃない」
それは、朔夜なりの最大限の肯定だった。
彼は、かつて愛した女性の幻影を完全に消したわけではない。しかし、その記憶を「呪い」ではなく、遠い過去の「一部」として、この風の中に放流し始めていた。
「サクヤ。……来年も、また見に来ましょうね。その時は、もっと美味しい紅茶を淹れるから」
「……鬼が笑うぞ。一年後の予定など、整備スケジュールにも入っていない」
そう言いながらも、朔夜はポットから注がれた二杯目の紅茶を、ゆっくりと口に運んだ。
薄紅色の木漏れ日の中。
不器用な術者と、耳の良い調律師。
二人の間に流れる時間は、ハヤブサの加速力とは正反対の、あまりに緩やかで、確かな春の音を奏でていた。
「……サクヤ。鼻の頭に、花びらがついてるわよ」
「――触るな。……自分で取る」
慌てて顔を背ける朔夜の耳が、僅かに赤くなっているのを、アリスは見逃さなかった。




