車椅子の依頼人と、囁く影
ロンドンの初夏は、光と影のコントラストが最も鮮やかになる季節だ。
ベーカー街のガレージのシャッターを叩く陽光は力強く、空気に混じるオイルの匂いさえもどこか輝いて見える。だが、その光を遮るようにしてガレージの前に停まった黒塗りの高級車――ロールス・ロイス・ファントムは、その場の空気を一瞬にして中世の石造りの街並みのような重厚さへと塗り替えた。
車から降りてきたのは、老練な執事に車椅子を押された、まだ十代半ばに見える少年だった。
透き通るような白い肌。仕立ての良いチャコールグレーのスーツ。そして、すべてを見透かしたような、それでいて絶望に塗りつぶされた灰色の瞳。
「……ここが、東洋の術者がいるという場所か」
少年の声は、細い弦が震えるような繊細さを持っていた。
ガレージの奥でハヤブサのフロントフォークを磨いていた朔夜は、作業の手を止め、ウエスで指先を丁寧に拭いながらゆっくりと振り返った。
「……見ての通り、ただのガレージだ。期待外れだったなら、今のうちに帰るんだな。お坊ちゃんには少々、油の匂いきつすぎるだろうし、ここは『救い』を売る教会でもない」
突き放すような口調だが、朔夜の視線は少年の顔に留まってはいなかった。彼は少年の背後、そして彼が座る車椅子の「足元」に沈殿している、淀んだ空気の塊を見据えていた。
「サクヤ、もう。そんな言い方しなくてもいいじゃない」
奥のキッチンから、淹れたての紅茶の香りを連れてアリスが現れた。彼女は少年の前に歩み寄ると、その瞳の奥にある「音」を聴き取るように、そっと屈み込んだ。
「……いらっしゃい。私はアリス・レイン。……怖い夢でも見たような顔ね。何か、困っていることがあるんでしょ?」
アリスが優しく微笑みかけると、少年――エリオット・ノースは、自分の膝の上で震える細い指を強く握りしめた。
「……毎日、聞こえるんだ。……死んだ本たちが、僕を呼ぶ声が。父様がいなくなってから、あの屋敷は僕を飲み込もうとしている。夜が来るたびに、壁から、床から、あいつらが這い出してくるんだ」
エリオットがその言葉を口にした瞬間、ガレージの明度が一段階落ちた。
初夏の陽光が届いているはずの床の上に、不自然な黒い染みが広がる。それは単なる影ではない。黒いインクが意志を持って滲み出したかのように、無数の「文字」がのたうち回り、連なり、意味をなさない呪詛の羅列となって車椅子に絡みつこうとした。
「……っ!」
アリスが息を呑み、後退る。彼女の耳には、数千、数万の紙が擦れ合うような、耳障りな囁き声が聴こえていた。
「――チッ。ただの幽霊騒ぎかと思えば、随分と骨の折れる客だ」
朔夜が鋭く一歩踏み出した。その足音がガレージのコンクリートに響くと同時に、床に刻まれていた目に見えぬ防護術式が起動する。
「土御門流・破却印――『浄』!」
朔夜が空中を指先で切り裂くと、青白い火花が散り、這い回る「文字」たちは悲鳴を上げる間もなく霧散した。だが、完全に消え去ったわけではない。それは一時的に、エリオットが持つ「根源的な恐怖」という避難所へ引き揚げたに過ぎなかった。
「……エリオット・ノースと言ったか。ノース伯爵家の末裔が、何だってこんな泥臭いガレージにまで足を運んだ」
朔夜は、作業台に腰掛け、新しいウエスを手に取った。突き放してはいるが、その瞳には依頼を受け入れる準備を終えた職人の光が宿っている。
「僕の家……ノース邸の地下には、大英帝国がかつて略奪し、封印してきた『禁忌の書庫』があるんだ。父様は代々、その門番だった。でも、三ヶ月前に父様が急逝してから、書庫の鍵が合わなくなった。扉の向こうで、何千もの呪われた知識たちが、新しい『主人』を求めて僕を呼んでいる」
エリオットの声は震えていた。
車椅子の少年には重すぎる宿命。その書庫に収められた「言葉」たちは、主を失ったことで暴走し、現世への侵食を始めているのだ。
「……サクヤ。……この子の『音』、もう限界よ。まるで壊れる寸前の、古いチェンバロみたい。……助けてあげられない?」
アリスの切実な瞳が朔夜を射抜く。
朔夜はふぅ、と長く息を吐き出すと、ガレージの奥に鎮座する愛車――ハヤブサへと歩み寄った。銀の車体は、まるでこれから始まる戦いを予見しているかのように、鋭い光を反射している。
「……エリオット。いいか、俺のやり方は優しくない。お前の屋敷を、オイルと排気ガスで汚すことになる。……おまけに、先祖代々の大事な書物とやらを、物理的に叩き壊すことになるが……それでもいいんだな?」
その不器用な確認は、朔夜なりの「覚悟の問い」だった。
エリオットは、青白い顔を上げ、初めて微かな、しかし確かな意志を感じさせる微笑みを浮かべた。
「……構わない。……君がハヤブサのエンジンをかけた瞬間、僕を呼んでいた死者たちの声が、一瞬だけ止まったんだ。……その音で、あの屋敷を、僕を、塗り替えてほしい」
「……フン。坊主のくせに、贅沢な注文だ」
朔夜はヘルメットを手に取り、ハヤブサのシートに跨った。イグニッションキーを回すと、燃料ポンプが作動する小さな音が響き、続いてセルモーターが力強く回る。
ドォォォォンッ、とガレージを震わせる咆哮。
それは単なる内燃機関の爆発音ではない。朔夜の霊力と、アリスの調律が混ざり合った、この街で唯一の「魔を退ける咆哮」だ。
「アリス、準備しろ。……ノース邸の埃っぽい書庫に、風穴を開けに行くぞ」
「了解! ……サクヤ、エリオットくんの屋敷、すっごく広いらしいわよ。迷子にならないでね?」
「……ハヤブサに追いつける亡霊がいたら、お目にかかりたいもんだ」
朔夜はバイザーを下ろし、クラッチを切った。
初夏のロンドン。青空の下を、銀色の猛禽と、車椅子の少年を乗せた高級車が、呪われた邸宅へと向かって走り出す。
エリオットの影には、まだ執拗に「文字」が絡みついている。
だが、その影を切り裂くように、ハヤブサの排気音がアスファルトを叩き、道を作っていった。




