迷宮の廊下(ギャラリー)
ロンドン郊外。鬱蒼と茂る森の奥深くに、ノース伯爵邸はその巨大な姿を現した。
灰色の石壁に絡みつく蔦は、まるで屋敷を外界から遮絶する鎖のようにも見える。エリオットを乗せたロールス・ロイスが重厚な鉄門をくぐると、背後で門がひとりでに閉まり、不気味な金属音が森に響き渡った。
「……酷い音ね」
ハヤブサの後部座席で、アリスが顔を顰めて朔夜の背中にしがみつく。彼女の耳には、門の軋みだけでなく、屋敷全体が発する「苦悶の喘ぎ」が聴こえていた。
「ああ、死臭の代わりに古い紙の匂いが充満してやがる。……おまけに、歓迎ムードじゃなさそうだ」
朔夜はヘルメット越しに、屋敷の正面玄関を見据えた。
車椅子のエリオットが執事に抱えられて降ろされると、屋敷の巨大なオークの扉が、招き入れるように音もなく開いた。一歩中に足を踏み入れれば、そこは外の初夏が嘘のような静寂と冷気が支配する世界だ。天井の高いエントランスホールには、歴代当主の肖像画が並んでいるが、その瞳はどれもインクが垂れたように黒く塗り潰されている。
「エリオット様、お帰りなさいませ」
出迎えたメイドたちの声は平坦で、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようだった。
「サクヤ、あそこ……!」
アリスが指差した先、吹き抜けの階段を覆うように、天井から無数の『文字』が滴り落ちていた。床に落ちた文字は、蜘蛛のような形に結集し、カサカサと音を立てて壁を這い回っている。
「……フン。本が外に出たがっているのか、それとも中へ引きずり込もうとしているのか。……おい、お坊ちゃん。書庫はどこだ」
「……この廊下を抜けた、突き当たりにある北棟の地下だ。でも、もう歩いて行くことはできない……廊下自体が、歪んでいるんだ」
エリオットが怯えながら指差した先。そこには、全長百メートルはあろうかという長い廊下が続いていた。だが、その視界は異常だった。廊下の床、壁、天井のすべてを、本から溢れ出したインクが真っ黒に染め上げ、そこに浮かび上がる白抜きの文字たちが、複雑な幾何学模様を描いてうごめいている。
それは、足を踏み入れた者の認識を狂わせ、永遠に目的地へ辿り着かせない『言語の迷宮』だった。
「……歩くのが無理なら、駆け抜けるまでだ。……アリス、舌を噛むなよ」
「ちょっと、サクヤ!? ここでエンジンをかけるつもり……きゃっ!」
朔夜がハヤブサのギアを叩き込んだ。
ドォォォォンッ! という暴力的な排気音が、静謐なノース邸の静寂を粉々に粉砕する。
「土御門流・転位術――『疾風』!」
朔夜が左手で印を結び、ハンドルを捻る。
銀色の閃光となったハヤブサが、屋敷の磨き上げられた大理石の床を蹴立てて急加速した。
廊下にひしめく文字の蜘蛛たちが、侵入者を排除せんと一斉に襲いかかる。壁から飛び出した「死」や「闇」という単語が、物理的な質量を伴った刃となって迫るが、朔夜はそれをミリ単位のバンク角で回避していく。
「邪魔だ、退け!」
朔夜の霊力がハヤブサの振動に乗り、衝撃波となって通路を掃除していく。文字の刃がハヤブサの銀のフェンダーを掠めて火花を散らす。
アリスは朔夜の背に顔を埋め、必死に彼の鼓動を聴いた。周囲から押し寄せる「呪いの言葉」のノイズを、朔夜の奏でる一定の、力強いエンジンのリズムが打ち消していく。
「――このまま突き抜けるぞ!」
歪み、伸び続ける廊下。
しかし、ハヤブサの速度が空間の歪みを上回った。
文字の渦が背後へ飛び去り、視界が開ける。
辿り着いた北棟の地下入り口。そこには、真鍮の巨大な鍵穴を持つ、鋼鉄よりも重厚な「知恵の門」が待ち構えていた。
門の前で急ブレーキをかけ、タイヤを鳴らして停止するハヤブサ。
「……ハァ、ハァ……。……サクヤ、心臓が止まるかと思った……」
アリスが肩で息をしながら、ヘルメット越しに朔夜を叩く。
「……フン、いい景気付けだ。……さて、お坊ちゃん。鍵は持っているんだろうな」
遅れて車椅子でやってきたエリオットは、呆然と、今しがたハヤブサが文字の嵐を切り裂いてきた跡を見つめていた。その瞳には、初めて「恐怖」以外の光――希望のようなものが、微かに灯っていた。
「……これだ。でも、合わないんだ。……鍵穴が、言葉を拒んでいるみたいに」
エリオットが取り出した真鍮の鍵。
そこには、無数の「嘘」という文字が産毛のように生え、鍵本来の形を歪めていた。




