緊急招集と二百マイルの報酬
ロンドンの夜を、一筋の光が切り裂いていく。
ベーカー街の裏路地にある、ようやく修繕が終わったばかりのガレージ。土御門朔夜は、仮設の防炎シートが鋼鉄のシャッターに置き換わったばかりの「聖域」で、黙々と作業に没頭していた。
手元を照らす作業灯の光が、剥き出しになった愛車の心臓部を鮮明に描き出している。
数日前、隣の楽器店でアリスのピアノを「調律」した際、彼の愛車のアイドリングは正常に戻った。だが、朔夜はその程度では満足しない。彼はミリ単位の誤差すら許さない男だ。指先に伝わる金属の微振動、吸気音の僅かな掠れ、それらすべてを完璧に同調させなければ、彼の「効率」は完成しない。
カチ、カチ、と小刻みな音が響く。
愛用のトルクレンチが、規定の力でボルトを締め上げたことを告げる。
その規則正しい静寂を、ハンドルマウントに固定されたスマートフォンが、無遠慮な電子音で踏みにじった。
「……チッ」
舌打ち一つ。朔夜はオイルの付いたグローブを脱ぎ捨て、画面をスワイプした。
画面には「王立怪異対策局」のロゴ。そして、『緊急(Urgent)』の文字。
「……土御門だ。夜中の三時に何の用だ、アビゲイル」
『寝ていたのなら謝るわ、サクヤ。でも、あなたのガレージのシャッター代を、今すぐ全額キャッシュで支払えるくらいのビッグな案件が転がり込んできたの』
スピーカー越しに聞こえるアビゲイルの声は、どこか高揚していた。
彼女がここまで興奮しているときは、大抵の場合、ろくでもない事態が起きている。
『M25(エム・トゥエンティファイブ)――ロンドン環状高速道路の北東セクションよ。この三日間で、多重衝突事故が四件。死者はゼロだけど、目撃証言が一致しているわ。「青い光に追い抜かれた瞬間、すべての計器が死に、エンジンが停止した」とね』
「EMP(電磁パルス)か? それなら科学捜査班の領分だろう」
『いいえ。エンジンの停止だけじゃない。すべてのドライバーが、追い抜かれる瞬間に「泣き声」を聞いているのよ。……それも、高回転域まで回しきったエンジンの悲鳴にそっくりな、女の泣き声をね』
朔夜の動きが止まる。
エンジンの悲鳴。それは機械を偏愛する彼にとって、最も不快で、同時に無視できない種類の音だった。
『局の予測では、これは十五年前にその区間で事故死した、当時ロンドン最速と言われたライダーの残留思念よ。問題なのは、その霊が高速道路そのもののレイラインと癒着して、成長し続けていること。放っておけば、M25全線が呪われた「停止地帯」になる。……サクヤ、あなたにしか頼めないわ。あの速度域で並走し、術式を叩き込めるのは、ロンドン中であなた一人だけよ』
朔夜は視線を愛車へと移した。
リッタークラスのスポーツマシン。最高速度は時速三百キロに迫る。だが、怪異を相手にその速度域で戦うということは、文字通り死の淵をなぞることに等しい。
「……報酬は?」
『あなたのガレージの家賃一年分。それと、あなたが今注文している最高級のチタンマフラー、あれを「局」の備品名目で全額負担してあげるわ』
「……交渉成立だ。今から一時間で仕様を変更する。M25を封鎖しろ。一般車両が一台でも残っていたら、俺は現場でUターンするぞ」
『了解よ。公式には「深夜の大規模道路修繕」として、北東区間を完全に沈黙させる。……幸運を、サクヤ』
通信が切れると同時に、朔夜は再び工具を握った。
今度は「整備」ではない。「戦闘」のための換装だ。
二百マイルを超える超高速下では、通常の符は風圧で紙吹雪のように散ってしまう。彼は棚の奥から、蓮真が送ってきた荷物の底に眠っていた「特殊な符」を引っ張り出した。
それは、蓮真が「兄さんの身を守るために」と、わざわざ分厚い和紙に重い墨で描いた、未熟ゆえに重厚な符だった。
「重すぎて使い物にならんと思っていたが……この風圧なら、この『重さ』が武器になるか」
朔夜は苦笑しながら、その符を特製のマウントに固定していく。
さらに彼は、カウルの隙間にいくつかの術式定数を刻み込んだ。バイクそのものを巨大な「破魔の矢」として機能させるための、禁じ手の一つだ。
その時。
ガレージの入り口、少しだけ開けていたシャッターの隙間から、控えめなノックの音がした。
「……ツチミカドさん? まだ、起きてらっしゃるの?」
アリスだった。
彼女はショールを羽織り、手に小さな紙袋を持って立っていた。
「……隣か。何の用だ。見ての通り、急ぎの仕事が入った」
「ごめんなさい。ガレージから、とても険しい気配がしたから……。また、あの日みたいに、何か恐ろしいことが起きるのかしら」
アリスが言う「あの日」とは、第一章で首無し騎士がガレージを破壊した夜のことだ。彼女は現場を見てはいないが、隣室で聞いた凄まじい衝撃音と、肌を刺すような霊的な冷気、そしてその後の朔夜の疲弊した様子から、彼が「普通ではない何か」と戦っていることを察していた。
「仕事だ。効率的に片付けて、日の出までには戻る」
「……これ。せめて、これを持って行って。あなたの『調律』の助けになるかもしれないから」
彼女が差し出したのは、丁寧に包まれたティーバッグと、小さな、錆びた一本の金属線だった。
「……弦か。こんなものを持って走れと言うのか。非効率だ」
「それは、百年前の名器に使われていたバイオリンのE線よ。とても強くて、どんなに激しい演奏の中でも、決してその音を失わなかった。……あなたを守る『結び』になってくれる気がして」
朔夜は「馬鹿げている」と切り捨てようとした。
だが、アリスの真っ直ぐな瞳に見つめられ、彼は言葉を飲み込んだ。
科学的な数式や、土御門の伝統的な術式とは全く異なる、だが確かに存在する「祈り」の波長。調律師である彼女が選んだその弦は、不思議と今の朔夜の殺気立った心に、柔らかな共鳴をもたらした。
「……預かっておこう。荷物にならない場所に、括り付けておく」
朔夜は不器用な手つきで、その弦を受け取った。
彼はハンドルの可動域を一切妨げないよう、右ミラーの金属製ステーに、その弦を丁寧に、しかし解けないよう固く巻き付けた。
そこは、前方の視界を確保する際に必ず目に入る場所だ。
金属同士が触れ合い、チリ、と硬質な音が響く。バイクの機能には何ら干渉せず、それでいて走行風の中でも静かに、銀色の線が一本、鈍い光を放っている。
「アリス。ガレージに入って、扉を閉めていろ。……夜明けには、お前の淹れた茶を飲みに来る」
「ええ。約束よ、ツチミカドさん。……無理はしないでね」
アリスが去り、ガレージに再び静寂が訪れる。
朔夜はヘルメットを被り、シールドを下ろした。視界がオレンジ色のデータ表示で埋まる。
「……さあ、行くぞ。二百マイルの向こう側に、何の未練があるのか見せてもらう」
セルを回すと、換装されたエンジンが、これまでとは比較にならない猛々しい咆哮を上げた。
ガレージの空気が振動し、床に散らばった工具が共鳴する。
朔夜はアクセルを開け、真夜中のロンドンへと飛び出した。
行き先は、呪われた環状線、M25。
そこでは、理性を捨てた速度の亡霊が、彼を待っている。




