ハイゲートの追憶、歪んだ弾道
週末のハイゲートは、ロンドンの中心部に居ることを忘れさせるほどに深い緑に覆われていた。
アイランドブルーのミニ・クーパーは、ヴィクトリア朝様式の古い邸宅が並ぶ坂道を、軽快なエンジン音を響かせて登っていく。ハンドルを握る朔夜は、ハヤブサを駆る時のような「戦うための集中」ではなく、バックミラーに映る日常を守るための、穏やかな注意力を払っていた。
「……四輪の挙動も、悪くないな。ハヤブサほどの鋭さはないが、この重さは、悪くない」
独り言のように呟くと、助手席でルートを確認していたアリスが、弾むような声で応じる。
「ふふ、そうですね。こうして三人で同じ景色を見ながらお喋りできるのは、ミニの素敵なところです」
「サクヤ! 窓の外、見て! あの木、すごく大きな音がする!」
後部座席からエレーナが身を乗り出し、ハイゲート墓地を囲む巨木を指差した。
かつて孤独に、ただ最短・最速の正解だけを追い求めていた朔夜にとって、この密室に充満する賑やかな「不協和音」は、何物にも代えがたい「正解」になりつつあった。
だが、その安らぎを切り裂くように、アリスの顔から血気が引いた。
「……待って。サクヤ、車を止めて。……変な音がする。すごく、気持ち悪い音が」
アリスが耳を塞ぎ、身を屈める。
彼女の「共鳴体質」が捉えたのは、周囲の美しい緑地から発せられる、生理的な嫌悪感を催す不快な共鳴。直後、どこからともなく這い出してきた薄緑色の霧が、アイランドブルーの車体を飲み込んだ。
「エレーナ、車から出るな! ロックをかけろ!」
朔夜が叫び、車を急停車させる。ドアを開けて外に飛び出した瞬間、粘り気のある胞子が肺に流れ込んできた。
それは、周囲の植物を媒体にし、対象が抱く「最も幸福な瞬間」を「喪失の恐怖」へと変換して見せる精神捕食型の怪異だった。
霧が、朔夜の視界を白濁させる。
隣にいたはずのアリスの手が、霧の彼方へと吸い込まれていく。
(……アリス? どこだ!)
叫ぼうとした喉が、蔓のような植物に締め付けられる。
次の瞬間、霧の中に浮かび上がったのは、かつての日本の春――拒絶の記憶、ではなかった。
そこにいたのは、今の、この瞬間の「アリス・レイン」だった。
幻覚の中のアリスは、光に満ちた豪華なコンサートホールにいた。彼女の隣には、自分のような鉄の臭いのする男ではない、華やかな正装を纏い、彼女と同じ「音楽」という言語で語り合える若きマエストロが立っている。
『サクヤ、ありがとう。あなたのおかげで、私は自分の居るべき場所を見つけられたわ』
アリスが、見たこともないほど晴れやかな、しかし残酷な微笑みを浮かべる。
『あなたは、独りで走るのが一番速い人。……私の隣には、もう、あなたの不器用な鼓動は必要ないの』
その言葉は、朔夜が心の深淵に押し込めていた「確信の持てない恐怖」そのものだった。
彼女にとって自分は、一時的な守護者に過ぎないのではないか。彼女が聴いている広大な音楽の世界において、自分の刻む音など、いずれは忘れ去られるノイズに過ぎないのではないか。
「……アリス。……待て。行くな」
朔夜の膝が、屈辱に震える。
合理的であるはずの思考は霧散し、アリスを失うという一点において、彼の精神は致命的なバグを引き起こしていた。足元からは茨の蔓が這い上がり、彼の体を「静止」という名の絶望に引きずり込んでいく。
「サクヤ! サクヤ!! 目を開けて!!」
耳元で、現実の、激しく震える声が響いた。
次の瞬間、朔夜の背中に、重く、熱い衝撃が伝わる。
アリスが背後から、彼の体を砕かんばかりの力で抱きしめていた。
共鳴体質を通じて、彼女は朔夜の内面で鳴り響く「自己否定の不協和音」を、その全身で受け止めていたのだ。
「聴いて! サクヤ、私の心臓の音を! 幻覚の私なんか見ないで、今の、ここにいる私を聴いて!!」
彼女の激しい心拍が、朔夜の背中に直接叩きつけられる。
一音、一音。それは、幻覚の中の優雅な旋律などよりも、ずっと泥臭く、必死で、そして執着に満ちた、朔夜を求める「恋」の音だった。
「……アリス」
その熱が、凍りついた朔夜の規律を強引に解凍していく。
彼は震える手でアリスの腕を掴み返し、肺いっぱいに現実の空気を吸い込んだ。
「……全くだ。お前の音を、見失うところだった」
朔夜の瞳から、迷いが消え、鋭利な殺気が戻る。
自分の不器用な一音が、彼女の世界でどう響くかは、まだ分からない。だが、彼女が今、これほどまでに自分を求めて叫んでいる。その事実だけで、朔夜を正気に戻す理由は十分だった。




