未完のプレリュード、冷めない余熱
朔夜たちの拠点、リージェンツ運河の赤レンガ倉庫。
一階のガレージに響くのは、規則正しい金属音ではなく、アイランドブルーのミニ・クーパーのエンジンが刻む、どこかぎこちないアイドリングの音だった。
朔夜は、ハヤブサの傍らに置かれたパイプ椅子に腰掛け、腕を組んでその青い四輪車を睨みつけていた。
手元には、オイルの付着していない清潔なタオル。彼はハヤブサに対してはエンジンを割り、心臓部まで指先を潜り込ませるが、このミニに対しては、目視による点検とワックス掛け以上のことはしないと決めていた。
(……四輪の機構は、俺の規律の外だ)
二輪整備士としての資格と技術は、あくまで「己の得物」を管理するためだけのもの。専門外の四輪に無暗に手を出すのは、彼にとって「合理性」に欠ける行為だった。
引越しの日、あともう少しで重なりそうだった唇の距離。あの瞬間から、二人の間には、説明のつかない「気恥ずかしさ」と「心地よさ」が同居する空気が流れ続けていた。
アリスが淹れる紅茶を飲み、エレーナの笑い声を聞き、運河のせせらぎを背に眠る。そんな穏やかな「日常」が積み重なるほど、朔夜は、その安定を壊してまで関係に名前を付ける必要性を、どこか後回しにしていた。今の距離が、あまりに完璧すぎて。
「サクヤ。……少し、お休みしませんか?」
背後から届いた声に、作業灯の明かりが揺れる。
アリス・レインが、トレイを手に傍らに立っていた。目が合うと、ふたり同時にわずかに視線を逸らし、それからどちらからともなく微かに笑う。
「……ちょうど、外装の点検が終わったところだ」
朔夜は無愛想を装って椅子から立ち上がり、差し出されたカップを受け取る。
指先がわずかに触れ合う。かつてなら仕事上の接触として流せたはずの熱が、今は妙に鮮明に意識された。
「ミニの調子はどうですか? サクヤが見守っていると、この子、すごく安心した音で鳴くんです」
「……気のせいだ。俺はこいつの専門家じゃない。ただ、アビゲイルがよこした車だ、機関部は完璧にメンテナンスされているはずだ」
理屈で線を引く朔夜の言葉を、アリスは見透かしたように見つめる。
彼女の「共鳴体質」は、朔夜が言葉にしない情熱も、その裏にある臆病さも、すべて音として拾い上げている。アリスにとって自分は、果たして「一番」になれているのだろうか。この穏やかな旋律を、一生守り抜くための確証。合理主義者である彼が、唯一「計算」で導き出せない答えが、そこにあった。
「サクヤ。週末、どこかへ連れて行ってくれますか? このミニで」
アリスの問いかけに、朔夜は冷めかけの紅茶を飲み干し、不器用な横顔を隠すようにガレージの出口に目を向けた。
「……点検走行が必要だからな。じゃあ週末に行くか」
そのぶっきらぼうな約束に、アリスは嬉しそうに、そして慈しむように頷いた。
この凪のような時間が、やがて来る嵐によって、決定的な「セッション」へと変貌していくことを、二人はまだ予感さえしていなかった。




