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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十八章:タワー・ブリッジ -鋼鉄の悲鳴-
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黄昏のハイウェイ

 タワー・ブリッジの巨大な跳開部が、本来あるべき水平の規律を取り戻し、重厚な音を立てて閉鎖された。

 路面が完全に重なり合った瞬間、宙吊りから解放されたスクールバスの周囲には、ようやく磁気嵐の結界を突破した局の救護班と警察車両が、耳障りなサイレンを鳴らしながらなだれ込んできた。

「サクヤ! エレーナが、エレーナが降りてくるわ!」

 アリスがタンデムシートで声を弾ませ、バスのタラップを降りてくる少女の姿を指差した。

 エレーナは、駆け寄る教師や救急隊員をすり抜け、遠く離れた場所に停まっている銀色の影を探して、必死に視線を泳がせている。彼女の瞳には、まだ恐怖の余韻が残っていたが、その奥には「サクヤは必ず来た」という揺るぎない確信が灯っていた。

「……元気そうだな。あいつの生命のリズムは、この程度の不条理では狂わないらしい」

 朔夜はフルフェイスのヘルメット越しに、一瞬だけ口角を緩めた。だが、彼はハヤブサを寄せることはしなかった。

 局の調査官たちが、現場に残留している霊力を測定するためにセンサーを振り回し始めている。彼らにとって朔夜は便利な「外注の駒」だが、同時にその圧倒的な力は警戒の対象でもある。これ以上ここに留まれば、無駄な事情聴取という名の非効率に拘束されることになる。

「アリス、掴まっていろ。ここからは『帰り』だ。仕事(行き)のノイズを全て振り落とすぞ」

「ええ……! エレーナ、リージェンツの家で待ってるわね!」

 アリスが大きく手を振ると、エレーナもそれに気づいたように、安心した顔で小さく手を振り返した。

 朔夜は無造作に左手のクラッチを繋ぎ、ハヤブサのアクセルを煽った。排気音はもはや雷鳴ではなく、深く、重厚な「調和」の取れた拍動へと戻っている。

 彼はハンドルマウントされたスマホの画面を、グローブを嵌めた指で軽快に操作した。再起動したプラグインが、渋滞の激しいロンドン中心部を避け、南東へと続く最短の脱出ルートを描き出している。

 だが、朔夜がその先に設定した目的地は、まだ運河沿いの自宅ではなかった。

「……サクヤ? このルート、家とは反対方向じゃない?」

「仕事の後は、システムの冷却が必要だ。お前の耳も、少しは静かな『音』を求めているだろう。それに、ハヤブサの点火系を回しきった後の余熱を逃がしておきたい。……不純な霊気を、あの運河の静寂に持ち込むのは規律に反する」

 ハヤブサは、ロンドンの喧騒を背に、A21号線からイースト・サセックス方面へと南下を開始した。


 都心のコンクリートジャングルを抜けると、風景は一変し、英国らしいなだらかな丘陵地帯が広がり始める。夕闇が濃くなるにつれ、空は深い群青色から、地平線に近い部分だけが鮮やかなオレンジ色に燃えるグラデーションへと染まっていった。

 一時間ほど走り続け、彼らが辿り着いたのは、セブン・シスターズとして知られる白亜の断崖を見下ろす、海岸沿いのワインディングロードだった。

 そこには、機械の悲鳴も、亡霊の咆哮も、局のサイレンもない。ただ、一定のリズムで岸壁を打つ波の音と、草原を撫でる風の音、そしてハヤブサの規則正しいエンジン音だけが世界を満たしていた。

「……綺麗。さっきまでの音が、嘘みたいに静か……」

 ヘルメットを脱いだアリスが、潮風に髪をなびかせながら、水平線を眺めて独り言ちた。

 朔夜はハヤブサをサイドスタンドで立て、自らもヘルメットを脱いでシートに腰掛けた。

「アリス。お前の耳には、今のこの場所はどんな風に聞こえている」

 アリスは少し驚いたように朔夜を見つめ、それから優しく微笑んだ。

 彼女は一歩、朔夜に近づくと、彼の隣に座り、そっとその肩に頭を預けた。

「今はね……とても穏やかな、正しい旋律だけが聞こえるわ。波の音、風の音……それに、あなたの、すごく静かな心臓の音。それが一番、私を安心させてくれる。……あの赤レンガの家で待っているエレーナの音も、今は穏やかだといいな」

 アリスの言葉に、朔夜は非合理的だと突き放すようなことはしなかった。

 彼は黙って、ポケットから取り出した日本製の安っぽいお守りを、無意識に指先で弄んでいた。彼の中にある冷徹な規律は、このアリス・レインという例外によって、少しずつ、だが確実に、より豊かで複雑な和音へと書き換えられようとしていた。

「……ふん。お前の耳がそう言うなら、今日の仕事は完璧だったということだな。ノイズは完全に消えた」

 朔夜はそう言うと、再びスマホを取り出し、運河沿いの自宅までのナビを設定した。

「さて、帰るぞ。エレーナが腹を空かせて待っている。……今日は蓮真が送ってきた、あの妙に辛い日本のカレーにでもするか。三人で食えば、少しはマシな味がするだろう。……あそこの広いキッチンなら、お前のアレンジも存分に振るえるはずだ」

「ふふ、いいわね。リージェンツの水の音に合わせて、最高の夕食にするわ。帰りも、あなたの音を聴かせてね。サクヤ」

 銀色のハヤブサは、主人の休息を見守るように、月光を反射して静かに佇んでいた。

 夜のハイウェイを、運河のせせらぎが待つ、三人の大切な「城」へと向かって、銀の翼が再び羽ばたき始めた。


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