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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十八章:タワー・ブリッジ -鋼鉄の悲鳴-
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神速の調律

 タワー・ブリッジの頂上で、時間は死に体となっていた。

 宙吊りになったスクールバスの足場である鋼鉄のプレートが、耐えがたい負荷によってリベットを次々と弾け飛ばしていく。パアン、パアンと、乾いた銃声のような破断音が響くたび、バスの車体は数センチずつ、冷たいテムズ川へと傾いていく。

「……っ、嫌、助けて! サクヤ! お姉様!」

 窓越しに、エレーナの悲鳴が風に乗って届く。彼女の指がガラスを白く染めるほど強く押し当てられていた。その純粋な恐怖の波が、アリスの共鳴体質を通じて朔夜の背中へと突き刺さる。

「アリス、聞こえるか。エレーナの叫びでも、亡霊の咆哮でもない。この絶望的な不協和音の底に、一瞬だけ訪れる『静寂の隙間』があるはずだ」

 朔夜の声は、この極限状態にあって驚くほど静謐だった。

 彼はハヤブサを巨人の周囲で旋回させながら、その鋭い視線で黒い煤の巨躯を解体していた。一度目の雷撃でダメージを受けたクランクシャフトは、無理やり再構成されたことで、より一層歪な律動を奏でている。

「……静寂の、隙間……。ええ、探すわ。私が見つけ出してみせる!」

 アリスは目を見開き、五感を「調律」という一点に収束させた。


 シュ、シュ、ドシュ、ドシュ……。巨人が吐き出す蒸気のリズム、歯車が噛み合わず滑る音、そして煤が擦れる不快な高周波。それら全ての音が、アリスの脳内で譜面へと変換されていく。

 複雑に絡み合った黒い音符の束。だが、その中核にある「ボイラーの脈動」が、一回転するごとに一ミリ秒だけ、全ての駆動が完全に停止する「デッドポイント」が存在することを、彼女の鼓膜は捉えた。

「見つけた! サクヤ、ボイラーの扉が閉じて、次の蒸気が圧縮される瞬間……そこだけ、音が消える! 次の拍動まで、零点二秒!」

「零点二秒か。……この銀の翼には、永遠にも等しい時間だな」

 朔夜は右足のステップを深く踏み込んだ。

 真鍮ユニットが、限界を超えた霊力の流入によって白熱し始める。カウルの隙間から漏れ出す光は、もはや青白さを超え、透明なまでの白光へと変わっていた。

「土御門流・雷法――『天罰覿面てんばつてきめん』。ハヤブサ、お前の全てを避雷針に変えろ」

 朔夜は懐から、一際古びた黒い符を取り出した。それは彼が日本を去る際、唯一持ち出した土御門家秘蔵の霊的触媒だ。彼はその符を、ハヤブサの燃料タンクに直接貼り付けた。

 瞬間、ハヤブサの咆哮が消えた。

 いや、排気音が物理的な音波を超え、大気を震わせる「振動」へと昇華したのだ。

「行くぞ、アリス! カウントを預ける!」

「……三、二、一……今よ! 撃ち抜いて!!」

 アリスの叫びが天を突くと同時に、朔夜はアクセルを極限まで捻り込んだ。


 銀色のハヤブサが、文字通りの「稲妻」となって垂直の空間を横切った。巨人が振り下ろした鋼鉄の腕を、髪一重という言葉すら生温い距離で回避し、その懐、赤黒く燃え盛るボイラーの扉へと肉薄する。

 朔夜はハンドルから右手を離し、印を結んだ指先を直接ボイラーへと突き立てた。

 ハヤブサのエンジンから吸い上げられた全霊力、そして真鍮ユニットが蓄積した膨大な電気エネルギーが、黒い符を通じて一気に解放される。

「規律への帰還を命ずる。……砕けろ」

 刹那、視界が真っ白に染まった。

 ドゴォォォォォン!! という、大気を粉砕するような爆音。

 巨人の心臓部を貫いた雷光は、煤の巨躯を内側から焼き切り、不浄な怨念を分子レベルで分解していく。十九世紀の蒸気が、現代のいかずちによって調伏され、ただの白い霧へと霧散していく。

 巨人の消滅と同時に、橋を支配していた霊的磁場が崩壊した。

 

「……っ、橋が閉まるわ!」

 アリスの言う通り、怪異による固定が解けたロードウェイが、自重と油圧によってゆっくりと水平へと戻り始めた。

 斜めに傾いていたスクールバスが、ガクンという衝撃と共に水平の路面へと着地する。エレーナたちの無事を確認する間もなく、朔夜はハヤブサを反転させた。

「仕事(行き)は終わりだ。……さて、アリス。局の連中がこの高所にたどり着く前に、お前の好きな『音』の場所へ向かうとしよう」

 朔夜はスマホの画面を指で弾いた。先ほどまで死んでいた液晶が、雷法の余波で再起動している。

 彼が検索したのは、事件の事後報告書ではなく、ここから数時間の距離にある、海沿いの静かなワインディングロードだった。


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