蒸気機関の亡霊
垂直の絶壁を駆け上がった銀色のハヤブサが、橋の頂上、天を指すロードウェイの先端へと到達した。
そこは、ロンドンの街並みが遥か眼下に広がる、孤立無援の戦場だった。潮風が吹き荒れ、磁気嵐が火花となって空を舞う。目の前には、今にもテムズ川へと滑り落ちそうなスクールバス。そして、その背後に立ちはだかるのは、十九世紀の闇を凝縮したような「蒸気機関の亡霊」だった。
「……っ、何、これ……。音が、重すぎて……空気が震えてる……!」
アリスが朔夜の背中で呻いた。
彼女の聴覚が捉えているのは、もはや単なる不協和音ではなかった。シュシュシュ、ドシュ、ドシュ……。巨大なシリンダーが往復し、逃げ場を失った高圧蒸気が鋼鉄の継ぎ目から漏れ出す暴力的な律動。それは、一世紀以上の時を経て蘇った、巨大な工場の心臓音そのものだった。
煤にまみれた影は、次第に明確な輪郭を結んでいく。巨大な歯車を関節とし、ピストンを筋肉とした、鋼鉄と煙の巨人。その頭部にあたる場所には、かつて橋を動かしていた旧式ボイラーの扉が、剥き出しの口のように開閉していた。
「十九世紀の亡霊にしては、随分と肥大化していやがるな。ロンドン中の古いインフラに残っていた『放置された規律』を、この磁気嵐が吸い寄せたか」
朔夜はハヤブサのエンジンを吹かし、アイドリングの鼓動を維持したまま、巨人の動きを冷徹に分析していた。
ハンドルにマウントしたスマホは、もはや完全に沈黙している。液晶画面はひび割れ、内部の回路が焼き切れたことを示す焦げ茶色のシミが浮かんでいた。だが、朔夜の瞳には、巨人の体躯を巡る「黒い霊脈」の流れがはっきりと見えていた。
「アリス、怯えるな。奴の音を『解析』しろ。どれほど巨大な機構でも、動いている以上は必ず周期がある。その周期が狂う瞬間、あるいは全ての歯車が噛み合う一点――そこが、奴の規律が最も脆弱になる急所だ」
「……解析……。ええ、そうね。私は、調律師なんだから……!」
アリスは深く呼吸を整えた。
恐怖を抑え込み、五感を研ぎ澄ます。周囲を支配する圧倒的な騒音の中から、彼女は特定の「音の層」を分離し始めた。
ボイラーが燃える轟音。煤が擦れる不快な高音。そして、それらを束ねている中心的な拍動。
その時、蒸気の巨人が咆哮を上げた。
黒い煙を吐き出しながら、巨大な鋼鉄の腕がハヤブサへと振り下ろされる。それは数トンもの重量を持った「規律の暴力」だった。
「おっと――遅いな。旧時代の速度で、この銀の翼を捕らえられると思うなよ」
朔夜はアクセルを一気に煽った。
ハヤブサが横方向へスライドするように跳躍する。路面は垂直に近いが、雷法によって固定されたタイヤは、まるで平地を走るかのようにその急斜面を自在に駆け抜けた。
直後、巨人の拳が鉄板を叩き、凄まじい衝撃波が橋を揺らす。
「サクヤ、右の第三関節……いえ、あの大きなクランクシャフトよ! 他の歯車と微妙に速度がズレてる。あそこが、無理やり動かされている無理の塊……不協和音の源泉!」
「了解だ。……やはり、調律の狂った機械は脆いな」
朔夜は左手で懐から数枚の符を取り出した。
通常、陰陽師の符術は詠唱を伴うことでその真価を発揮する。しかし、朔夜の流儀は違う。彼は呪文を編む時間を、ハヤブサの加速と、物理的な一撃へと変換する。
「雷法・直結――『千鳥』」
符をハヤブサのフロントフォークへと叩きつける。
ハヤブサの点火系から逆流した超高圧の霊力が、符を媒介にして指向性を持つ稲妻へと変質した。銀色のカウルから、数千羽の鳥が囀るような激しい放電音が響き渡る。
「アリス、カウントを入れろ。奴のシャフトが、最も歪む瞬間を!」
「……三、二、一……今! 打って!」
アリスの叫びと同時に、朔夜はハヤブサを巨人の懐へと突進させた。
重力を無視した超高速の旋回。巨人の振るった腕を紙一重で回避し、その巨躯の影へと潜り込む。
朔夜の手から放たれた青白い雷光が、アリスの指摘したクランクシャフトへと一直線に突き刺さった。
バヂィィィィン! という、空間を裂くような破砕音。
巨人の動きが、一瞬だけ硬直する。蒸気の噴出が止まり、歯車の回転が逆流し始めた。
「……よし、一撃。だが、根が深いな。これしきの衝撃では、積年の恨みは浄化しきれんか」
朔夜の言葉通り、巨人はバラバラと煤を零しながらも、再びその体躯を再構成しようとしていた。むしろ、一度打たれたことで、その「古い規律」はより攻撃的な赤黒い光を帯び始めている。
そして、その背後――スクールバスの足場となっている鉄板が、巨人の激しい動きに耐えきれず、不気味な軋み音を立てて剥がれ始めた。
「サクヤ、バスが……! エレーナたちが落ちちゃう!」
「分かっている。……アリス、次の調律は、奴の『心臓』だ。一度で全ての回路を焼き切る。……真鍮ユニット、最終段階へ移行するぞ」
朔夜の瞳の中で、青白い雷光がこれまで以上に激しく明滅した。
仕事(行き)のクライマックスが、すぐそこまで迫っていた。




