雷法・垂直の轍
テムズ川の冷たく濁った水面を眼下に、銀色のハヤブサが「雷鳴」を上げた。
タワー・ブリッジの跳開部――その巨大な鋼鉄の斜面は、今や八十六度の絶壁となって天を指している。通常の物理法則に従えば、二輪車が踏み入る場所ではない。タイヤは重力に負けて空転し、数トンの鉄塊と化したバイクはライダーと共に川面へ叩きつけられるのが必定だ。だが、土御門朔夜にとっての「道」とは、アスファルトの有無ではなく、己の規律が通るか否かであった。
「……っ、サクヤ! 重力が、体が引き剥がされそう……!」
タンデムシートに座るアリス・レインの声が、激しい風圧に掻き消されそうになる。彼女は朔夜のライディングジャケットを、指の関節が白くなるほど強く掴んでいた。
加速Gがアリスの体を後方へ、下方へと引きずり込もうとする。しかし、背中越しに伝わる朔夜の肉体は、まるで鋼鉄の柱のように微動だにしない。彼の心拍は、驚くほど冷静で、一点の乱れもないメトロノームのように正確だった。その絶対的な安定感こそが、恐怖に支配されそうなアリスの意識を現実へと繋ぎ止める、唯一の錨となっていた。
「アリス、意識を逸らすな。呼吸を整えろ。余計な雑音は俺の雷気で弾き飛ばす。お前はただ、その耳で『歪みの中心』だけを捉えていろ。お前の聴覚が、この絶壁を走り抜けるための唯一の海図になる」
朔夜は、ハンドルにマウントしたスマートフォンの画面を視線だけで追った。局の「霊的観測プラグイン」は、磁気嵐による凄まじい電磁ノイズによって明滅し、もはや正確な地形データすら描画できていない。画面はノイズの砂嵐に覆われ、エラーログが高速で流れていく。
この領域では、近代的な電子機器はもはや補助的な役割すら果たさない。朔夜は迷わずスマホの論理制御を遮断し、自らの霊力を物理的な経路としてハヤブサの電子制御系へと、暴力的なまでに流し込んだ。
「土御門流・雷法――『電光石火』。ハヤブサ、路面(規律)を食い破れ。この『不条理』な斜面を、正しい轍で塗り替えろ」
刹那、銀色のカウル全体を青白い稲妻が覆い尽くした。
特殊改造を施されたタイヤの接地面と、垂直に近い鉄板の路面との間に、超高圧の霊的磁場が発生する。それは「摩擦」という概念を越えた、絶対的な吸着と推進力の融合だった。重力を嘲笑うかのように、ハヤブサは垂直の轍を空に向かって刻み始めた。
アリスの耳には、橋の深部から響く「音」が、より鮮明に、より禍々しく届き始めていた。
ドシュン、ドシュンという、巨大なピストンが重い蒸気を吐き出すような幻聴。それは百三十年以上前、この橋を動かしていた石炭と水、そして過酷な労働環境下で命を削った男たちの汗によって生み出された「古い力」の残響だ。
だが、その音にはあるべきはずの「調和」が欠けていた。
「……聞こえるわ。この橋の骨組み全体が、無理やり心臓を叩き起こされているみたい。でも、そのリズムが速すぎる! 誰かが、彼らを休ませずに、無理やり走らせているのよ! 悲鳴が、鋼鉄の軋みの中に混ざってる……!」
アリスが聴き取ったのは、単なる怪異の咆哮ではない。かつての動力源であった蒸気機関そのものが、現代のデジタル規律に反発し、自らを破壊せんばかりに暴走している断末魔だった。
「だろうな。十九世紀のロンドンを支えた誇りと、止まることを許されなかった時代の無念が、現代の『静寂』に耐えられないわけだ。歪んだ規律が自己増殖を始めている」
朔夜の鋭い視覚には、橋の頂上に位置するスクールバスの周囲を、巨大な「煤の影」が包囲しているのが見えていた。影はかつての蒸気ピストンの形を模しながら、実体化の機会を窺い、テムズ川の湿った空気を吸い込んで肥大化していく。
その影が揺れるたび、バスの車体が不気味に揺れ、中から子供たちの悲鳴が響く。
「……あいつ、泣いてねえな」
朔夜は、窓際で必死に周囲を観察しているエレーナの瞳を捉えた。
恐怖に震えながらも、彼女は朔夜が必ず来ると信じている。その純粋な信頼こそが、朔夜にとって最も効率的に動くためのエネルギーとなっていた。
垂直走行の限界点――橋の先端まであと数十メートル。
ハヤブサの心臓部である「真鍮ユニット」が、霊力の過負荷に耐えきれず、キィィィィンと耳を劈くような高周波を上げた。真鍮の歯車が超高速で回転し、過熱した空気がカウルの隙間から陽炎となって立ち昇る。
「規律を乱すバグが、我が物顔でロンドンの空を占拠するな。ここは、俺とお前が走る道だ」
朔夜は一瞬の迷いもなく、さらにスロットルを開ききった。
稲妻を纏った銀の翼が、夕闇のロンドンを真っ二つに裂き、重力の鎖を完全に断ち切る。
彼らが橋の頂上へと到達した瞬間、バスを揺らしていた黒い霧が、鎌首をもたげて朔夜たちへと牙を剥いた。十九世紀の怨念を孕んだ巨大な「鋼鉄の腕」が、ハヤブサを叩き落とそうと振り下ろされる。
「アリス! 中心のリズムを拾え! 奴の規律を書き換える『一打』を導き出せ!」
「ええ……やってみるわ! あの、不協和音の底にある、最も汚れた音を……!」
垂直の世界で、陰陽師と調律師の共鳴が、さらなる高みへと加速していく。




