不機嫌な鋼鉄
ロンドンの夕刻を象徴するテムズ河畔の風景が、一瞬にして異界の入り口へと変貌した。
一八九四年に完成したタワー・ブリッジ。ビクトリア時代の最先端技術が詰まったその跳開橋が、物理法則に抗うように、天を指したまま静止している。本来なら大型船の通過とともに静かに水平へと戻るはずの二つの翼は、最大角度である八十六度で固定され、沈黙の咆哮を上げていた。
「……おかしいわね。ただの故障じゃない。今の音、聞こえた?」
アイランドブルーのミニ・クーパーの傍らで、アリス・レインが眉をひそめて橋を見上げた。
彼女の「共鳴体質」は、周囲の物質が発する微細な振動を「音」として捉える。それは確かに常人には聞こえないノイズを拾うが、パニックに陥るような類のものではない。一流の調律師である彼女にとって、それは「不具合を起こしているピアノの弦」を特定する感覚に近いものだ。
「ええ、はっきりと聞こえるわ。現代の油圧システムの音じゃない。もっと重くて、無理やり歯車を回そうとする……蒸気機関の残響のような、嫌な不協和音が」
「流石だな。俺のスマホが弾き出した解析結果と、お前の耳は同じ答えを出している」
銀色のカウルを鈍く光らせるハヤブサに跨がったまま、土御門朔夜はハンドルにマウントしたスマートフォンの画面を無造作にスワイプした。王立怪異対策局(局)の「霊的観測プラグイン」が、橋の深部にどす黒い熱源を検知している。
「十九世紀の蒸気機関パーツに残存していた『止まることを許されない規律』……つまり、当時の過酷な労働環境が生んだ執念が、現代のデジタル制御を食い破っている。古いシステムが新しい規律を侵食し、無理やり自らのリズムで踊らせようとしているわけだ。機械としての整合性が致命的に欠けている」
朔夜の視界には、橋の隙間から霧のように溢れ出す黒い瘴気がはっきりと見えていた。
彼にとって、バイクの整備と除霊は本質的に同じ「システムの修復」だ。彼が日本で二輪の整備資格を取得しているのも、愛車ハヤブサを術式の一部として完璧な規律の下に置くためだ。一ミリの狂いも許さない整備こそが、彼の陰陽師としての精度を担保している。
「局の連中はどうした。……ああ、無能どもめ。磁気嵐が強すぎて、観測車一台近づけられないか。効率が悪すぎる」
数百メートル先では、局の特殊車両が数台、白煙を上げて立ち往生していた。最新鋭の電子機器ほど、この「古い規律」が放つ霊的磁場には脆弱だ。現代科学の粋を集めた装備が鉄屑と化す中、朔夜は鼻で笑った。彼はスマホを愛用するが、それに依存はしていない。最悪、道具が死ねば自らの指先一つで霊脈を調律する自信がある。
「サクヤ、あれを見て! エレーナの学校のバスよ!」
アリスが鋭く声を上げた。彼女の視線は、跳ね上がった橋の先端、今にもテムズ川へ滑落しそうな位置で停車している黄色いスクールバスを捉えていた。
窓ガラスを叩き、必死にこちらを呼ぶ小さな手。エレーナだ。
「……チッ。あいつ、今日が社会科見学だとは言っていたが、よりによってこんな『不条理』のど真ん中に居合わせるとは。計算外のノイズだ」
朔夜の瞳の奥で、青白い火花が爆ぜた。
彼にとって、この世界は正しい規律で動くべき場所だ。怪異という名のバグが、罪のない子供や、アリスの日常を脅かすことは、彼自身の美学において断じて許容できない「エラー」だった。
そして何より、隣で唇を噛むアリスの瞳に宿る不安を、彼は自身の「規律」を揺るがす重大な事象として捉えていた。
「アリス、後ろに乗れ。お前の耳で、奴の『心臓の律動』を聴き分けてもらう。……こいつは『仕事』だ。最短・最速、一秒の猶予も残さず片付けるぞ」
「ええ、分かっているわ。サクヤ、私をあの音の真ん中まで連れて行って。あの子たちを救うために、正しい旋律を見つけ出すから」
アリスが迷いなくハヤブサのタンデムシートに飛び乗り、朔夜の腰を強く抱きしめた。
ホワイトチャペルの事件を経て、彼女は自らの恋心を確信している。この不器用で冷徹な男の出す「音」が、今の彼女にとって最も信頼に値する規律であることを、その指先が覚えている。
「真鍮ユニット、セーフティ解除。リミッターを一時的にバイパスする」
朔夜が右足のステップ付近のレバーを蹴り込むと、カウルの中で真鍮製の歯車が噛み合う高い音が響いた。同時に、ハヤブサの点火系に朔夜の霊力が直結される。
「土御門流・雷法――バイパス接続。ハヤブサ、お前の規律を俺に預けろ」
重厚な排気音に、高周波の雷鳴が混ざり始めた。銀色のカウルの隙間から青白い稲妻が弾け、周囲の空気をイオンの匂いで満たしていく。
「行くぞ。振り落とされるなよ」
アクセルを全開にした瞬間、ハヤブサは「加速」という概念を塗り替える跳躍を見せた。
テムズ川の冷たい風を切り裂き、磁気嵐の結界を力技で突破する。朔夜の瞳は、エレーナの待つ橋の頂上、そしてその奥に潜む呪いの核だけを見据えていた。




