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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十七章:アカデミー ―学び舎の五芒星―
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不調和の断罪

「――逃がさない。私の音楽を、私の聖域を汚す不文律な雑音は、全て消し去らねばならない」

 ミルトンが再び鍵盤を叩いた。その瞬間、音楽室の空気が爆ぜた。

 保護者たちの悲鳴が響く中、教員の背後から溢れ出した「黒い澱」が、無数の触手となってピアノの弦を弾き鳴らす。それはもはや音楽ではない。重力を歪ませ、鼓膜を直接ナイフで削るような、物理的な殺意を孕んだ音波の奔流だった。

「ひっ……! なに、この音……っ!」

 アリスが悲鳴を上げ、エレーナを抱き寄せたまま教室の隅でうずくまった。

 彼女に分かるのは、ピアノから発せられる音が「生理的に受け付けないほど醜悪に歪んでいる」ということだけだ。それが霊的な攻撃なのか、何が原因なのか、アリスには知る由もない。ただ、調律師としての鋭敏すぎる耳が、破壊的なノイズに晒され、立っていることさえままならない。

「サクヤ、助けて……! 耳が、耳が壊れちゃう……!」

 アリスの震える声が、怒号のような不協和音の中に消えていく。


「……不快なノイズだ。規律を乱すにも程がある」

 朔夜は一歩、地を蹴った。

 アリスのように「音」に翻弄されることはない。彼の目には、ピアノの筐体から溢れ出し、教室全体を侵食しようとする漆黒の瘴気がはっきりと視えていた。

 彼は懐から、鈍い光を放つ銅板を取り出した。アリスが原因を特定するのを待つ必要などない。マシンの異音を聞けば瞬時に故障箇所を突き止めるように、朔夜の直感は、ピアノの奥底に潜む「澱の核」を捉えていた。

「感情という不確かなものを糧にするから、そうやって構造が崩れる。……貴様の規律を、ここで強制終了させる」

 朔夜は、降り注ぐ音波の衝撃を「気」の障壁で弾き飛ばしながら、真っ直ぐにピアノへと肉薄した。

 ミルトンが狂ったように鍵盤を乱打し、黒い霧が牙を剥いて朔夜に襲いかかる。だが、朔夜は眉一つ動かさず、空中で鮮やかに印を組んだ。

「――謹解、五行の律。不浄なるバグを、無へと帰せ」

 朔夜の指先が、ピアノの内部、死者の執念が凝縮された「一点」を突く。

 刹那、青白い雷光が走り、ピアノの内部で「パチン」と、硬い弦が断裂するような音が響いた。

「ギ、ギャアアアアアッ!」

 ミルトンの背後から、実体化した「影」が引き剥がされる。それは苦悶に悶絶しながら、朔夜が放った浄化の炎に焼かれ、霧散していった。

 同時に、狂ったように鳴り響いていたピアノの音が止まる。

 静寂。

 耳をつんざくような不快な共鳴は消え、残されたのは、ミルトンの荒い呼吸と、焼け焦げたような微かな匂いだけだった。

「……規律の再構築リブートだ。次は、自力で正気を保て」

 朔夜は冷徹に言い放ち、手首を返して印を解いた。

 ミルトンは糸の切れた人形のように、鍵盤の上に突っ伏して気を失った。


 廊下からは騒ぎを聞きつけた職員たちの足音が近づいてくる。アリスは耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろし、涙の浮かんだ目で、立ち尽くす朔夜の背中を見上げた。彼女には何が起きたのか正確には分からなかったが、ただ、あの地獄のような音が消えたことだけが救いだった。

「サクヤ……終わったの?」

「……ああ。不具合は消した。帰るぞ、アリス」

 朔夜は乱れたジャケットの襟を正し、振り返ることなく教室を後にした。


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