不調和の断罪
「――逃がさない。私の音楽を、私の聖域を汚す不文律な雑音は、全て消し去らねばならない」
ミルトンが再び鍵盤を叩いた。その瞬間、音楽室の空気が爆ぜた。
保護者たちの悲鳴が響く中、教員の背後から溢れ出した「黒い澱」が、無数の触手となってピアノの弦を弾き鳴らす。それはもはや音楽ではない。重力を歪ませ、鼓膜を直接ナイフで削るような、物理的な殺意を孕んだ音波の奔流だった。
「ひっ……! なに、この音……っ!」
アリスが悲鳴を上げ、エレーナを抱き寄せたまま教室の隅で蹲った。
彼女に分かるのは、ピアノから発せられる音が「生理的に受け付けないほど醜悪に歪んでいる」ということだけだ。それが霊的な攻撃なのか、何が原因なのか、アリスには知る由もない。ただ、調律師としての鋭敏すぎる耳が、破壊的なノイズに晒され、立っていることさえままならない。
「サクヤ、助けて……! 耳が、耳が壊れちゃう……!」
アリスの震える声が、怒号のような不協和音の中に消えていく。
「……不快なノイズだ。規律を乱すにも程がある」
朔夜は一歩、地を蹴った。
アリスのように「音」に翻弄されることはない。彼の目には、ピアノの筐体から溢れ出し、教室全体を侵食しようとする漆黒の瘴気がはっきりと視えていた。
彼は懐から、鈍い光を放つ銅板を取り出した。アリスが原因を特定するのを待つ必要などない。マシンの異音を聞けば瞬時に故障箇所を突き止めるように、朔夜の直感は、ピアノの奥底に潜む「澱の核」を捉えていた。
「感情という不確かなものを糧にするから、そうやって構造が崩れる。……貴様の規律を、ここで強制終了させる」
朔夜は、降り注ぐ音波の衝撃を「気」の障壁で弾き飛ばしながら、真っ直ぐにピアノへと肉薄した。
ミルトンが狂ったように鍵盤を乱打し、黒い霧が牙を剥いて朔夜に襲いかかる。だが、朔夜は眉一つ動かさず、空中で鮮やかに印を組んだ。
「――謹解、五行の律。不浄なるバグを、無へと帰せ」
朔夜の指先が、ピアノの内部、死者の執念が凝縮された「一点」を突く。
刹那、青白い雷光が走り、ピアノの内部で「パチン」と、硬い弦が断裂するような音が響いた。
「ギ、ギャアアアアアッ!」
ミルトンの背後から、実体化した「影」が引き剥がされる。それは苦悶に悶絶しながら、朔夜が放った浄化の炎に焼かれ、霧散していった。
同時に、狂ったように鳴り響いていたピアノの音が止まる。
静寂。
耳を劈くような不快な共鳴は消え、残されたのは、ミルトンの荒い呼吸と、焼け焦げたような微かな匂いだけだった。
「……規律の再構築だ。次は、自力で正気を保て」
朔夜は冷徹に言い放ち、手首を返して印を解いた。
ミルトンは糸の切れた人形のように、鍵盤の上に突っ伏して気を失った。
廊下からは騒ぎを聞きつけた職員たちの足音が近づいてくる。アリスは耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろし、涙の浮かんだ目で、立ち尽くす朔夜の背中を見上げた。彼女には何が起きたのか正確には分からなかったが、ただ、あの地獄のような音が消えたことだけが救いだった。
「サクヤ……終わったの?」
「……ああ。不具合は消した。帰るぞ、アリス」
朔夜は乱れたジャケットの襟を正し、振り返ることなく教室を後にした。




