歪んだ共鳴(授業参観)
数日後。セント・ジョンズ・アカデミーの廊下は、授業参観に訪れた保護者たちの控えめな談笑で満たされていた。
アイランドブルーのミニから降り立ち、朔夜と共に校舎へ足を踏み入れたアリスは、周囲の華やかな雰囲気とは裏腹に、不安げに自らの腕をさすった。
「……ねえ、サクヤ。この建物、なんだか耳鳴りがするわ。それも、とても悲しい、調律の狂った古いピアノの音みたいな……」
アリスは伏せがちな瞳をさらに深く落とし、消え入るような声で呟いた。彼女にとって、この空間に満ちているのは「音」の暴力だった。調律師としての鋭敏すぎる聴覚が、壁や床の奥から響く不穏な軋みを拾い上げ、彼女の細い肩を震わせている。
「気の流れが淀んでいる。……腐敗した水の匂いだ」
朔夜は短く応じ、廊下を進む。
二人がエレーナのいる音楽室に到着すると、そこではミルトン教員による公開授業が行われていた。先日、校門前で醜態をさらした時とは一変し、ミルトンは完璧な紳士の顔で教壇に立っている。だが、朔夜の目には、彼の背後に蠢く「澱」が先日よりも遥かに膨れ上がり、教室の天井を侵食しているのが見えていた。
「――では諸君、この旋律を聴いて、その構成について意見を聞かせてくれたまえ」
ミルトンがピアノに向かい、鍵盤に指を置いた。
奏でられたのは、流麗な古典派のソナタ。周囲の保護者たちは、その非のうちどころのない技巧に感嘆の溜息を漏らす。だが、アリスの表情は一瞬で血の気が引いた。
「……嘘。サクヤ、止めて。あれは、音楽じゃないわ」
アリスが、耐えきれないというように両手で耳を強く塞いだ。
彼女の耳に届いているのは、旋律などではなかった。美しく整えられた打鍵の裏側で、金属が悲鳴を上げ、音の粒子が互いを喰らい合うような、吐き気を催す「泥を啜るような不快な響き」。
「……視えている。あの男の影が、ピアノの構造そのものに寄生しているな」
朔夜の視覚では、ミルトンの指先から伸びた黒い糸が、ピアノの内部へと潜り込み、弦をドロドロとした粘液で汚染していた。教員の「歪んだ選民意識」を依代にして、この土地の古い因縁が完全に顕現しようとしている。
「ミルトン先生……?」
教室内で、エレーナが真っ青な顔で教員を見つめていた。彼女もまた、本能的な恐怖を感じ取っている。
ミルトンの演奏が加速する。音色はいよいよ冴え渡るが、それに比例して室内の霊的磁場は狂い、窓ガラスが微かに、嫌な音を立てて共鳴し始めた。
不意に演奏が止まり、ミルトンがゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥には、もはや理性は一片も残っていない。
「……東洋の、無資格の部外者。君は、また私の神聖な場を汚しに来たのかね。……君のような雑音は、排除されなければならない」
ミルトンの声は、もはや人間のそれではない。幾重にも重なった死者の囁きのような響きを伴っていた。
「アリス、エレーナを連れて下がれ」
朔夜が静かに、だが抗いようのない威圧感を持って告げる。
平穏な授業参観という枠組みが、今、決定的に崩れ去った。




