錆びついた選民意識
放課後のセント・ジョンズ・アカデミー。
夕刻の低い光が、歴史の重みを湛えた煉瓦造りの校舎を赤銅色に染め上げる中、その静謐を切り裂くように、重厚な金属の鼓動が響き渡った。
銀色のカウルを濡れたように輝かせ、朔夜のハヤブサが校門前へと滑り込む。巨大な機械の熱気が陽炎となって揺れる中、フルフェイスのシールドを跳ね上げた朔夜の視線の先、校舎の玄関からエレーナが弾かれたように駆け寄ってきた。
「サクヤ! 待っててくれたんだね」
「……時間通りだ。余計な滞在は好まない。離脱するぞ、エレーナ」
朔夜が予備のヘルメットを差し出した、その時だった。
「――おい、君。そこを退きたまえ。ここは許可された車両以外、立ち入り禁止だと言わなかったかね?」
背後から、凍てつくような、そして神経質に尖った声が飛んできた。
振り返ると、仕立ての良すぎる三つ揃えのツイードスーツを着こなした男が立っていた。音楽主任のミルトン教員だ。彼は、鉄と排気ガスの匂いを纏った朔夜のレザージャケットと、その跨る異形なバイクを、不浄な泥でも見るかのような冷淡な眼差しで見下ろした。
「学位の一つも持たず、どこの馬の骨とも知れぬ怪しげな術策を弄する東洋人……。そんな者が、英国の伝統ある教育の聖域に土足で踏み込むとは。……これだから、規律を知らぬ『野良犬』は困るのだ。エレーナ、君もだ。このような禍々しい乗り物で通学するなど、淑女の教育に反するとは思わないのかね?」
ミルトンの言葉には、隠そうともしない露骨な選民意識と、自らの理解を超えた「陰陽師」という存在に対する生理的な蔑みが混じっていた。エレーナが怯えたように肩を震わせ、俯く。その瞬間、朔夜の瞳から一切の温度が消え去った。
彼は無言でバイクをサイドスタンドで立てると、ゆっくりとミルトンの正面に歩み寄った。一歩踏み出すごとに、周囲の空気が急速に冷え込み、重く沈んでいく。
「……淑女の教育、か。随分と高尚な単語を並べるものだ。だが貴公の言う教育には、『根拠のない差別を公言し、無防備な教え子を言葉の暴力で威圧する』という項目も含まれているのか?」
「何だと……? 貴様、私に向かって……!」
「この国に、貴公が信奉する『正統』以外の生き方を禁ずる法はない。……一方、貴公はどうだ?」
朔夜の視覚には、怒り狂うミルトンの背後に、どろりとした「黒い影」が揺らめいているのが見えていた。それは教員の醜い自尊心に寄生し、その生命力を啜る「澱」だ。
見過ごすには、あまりに「規律」が乱れている。
朔夜はミルトンの罵声を遮るように、電光石火の速さで右手を伸ばした。
ミルトンの額の数センチ前で、人差し指と中指を揃えた「刀印」を突きつける。
「な、何を――」
「動くな。……そのまま息を止めろ」
朔夜の冷徹な声が、ミルトンの思考を強制停止させた。
刹那、朔夜は指先から鋭い気を放ち、空中に目に見えぬ一線を引く。ミルトンの背後の影が、焼きごてを当てられたかのように激しくのたうち回り、一瞬だけ霧散した。
ミルトンの顔から血の気が引き、膝ががくんと揺れる。
「今のは、貴公の腐った自尊心に巣食う不具合への『暫定処置』だ。……貴公が教育者として自らを律せぬ限り、その澱は再び増殖し、貴公自身を食い破るだろう」
ミルトンは、何が起きたのか理解できず、ただ呼吸を荒らげてその場に崩れ落ちそうになった。朔夜はもはや彼を視界に入れず、エレーナを後ろに乗せてエンジンを再始動させた。
ハヤブサの咆哮が、静まり返った校門前に響き渡る。ミラー越しに、恐怖と困惑に顔を歪ませた教員の姿が遠ざかっていく。
「……ねえ、サクヤ」
走行風の中で、エレーナが背中に顔を押し当てるようにして呟いた。
「ミルトン先生、前はあんな人じゃなかったの。……もっと静かで、ピアノを弾く時はすごく綺麗な音を聴かせてくれる、優しい先生だったのに。ここ数週間、なんだか……別の怖い人に変わっちゃったみたいで」
朔夜はスロットルを回しながら、眉を寄せた。
先ほどの処置で澱を散らしたが、あれは根治ではない。依代となる「歪み」が教員自身の中にある限り、怪異は必ず戻ってくる。
――この学園に、淀んだ気が溜まり始めている。




