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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十六章:アディショナル・タイム ―逆転の助手席―
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ライセンスの重みと、階級を越えた指先

 ガレージの作業台に、一枚のプラスチックカードが置かれた。真新しいイギリスの四輪運転免許証だ。

 そこに至るまでには、幾度もの模擬試験での屈辱と、試験官との「解釈の相違」という名の衝突があった。二輪では神の如き領域にいる男が、四輪という「不自由な檻」に馴染むために払った対価は、決して安くはなかった。

 その隣には、リフレッシュを終えたばかりのミニのキーが、確かな質量を持って横たわっている。プロの手によって組み上げられ、MOT(車検)をパスしたその鍵は、もはや「動かない鉄屑」ではない。朔夜の新しい翼であり、公的な「許可証」でもあった。

 その夜、ガレージの隅の小さなテーブルでは、朔夜がエレーナのノートを覗き込んでいた。エレーナが手こずっていた高度な数学の宿題に対し、朔夜は万年筆を動かし、極めて合理的かつ明快な解法をさらさらと書き記していく。

 

 キッチンから紅茶を運んできたアリスは、そのノートを覗き込み、すぐに眉をひそめて顔を背けた。

「……ダメ、見てるだけで頭が痛くなってくるわ。サクヤ、あなたそんな暗号みたいなものをスラスラと。エレーナも、どうしてそれで理解できちゃうの?」

「暗号じゃないわ、お姉様。サクヤの教え方、学校の先生よりずっと分かりやすいもの。……公式の意味を、機械の歯車みたいに説明してくれるから」

 エレーナの言葉に、アリスは紅茶のカップを置いて、面白そうに朔夜の横顔を覗き込んだ。

「……やっぱり、確信したわ。その教え方、ただの『器用な人』のそれじゃないもの。ねえサクヤ、あなた日本のかなり優秀な進学校に通っていたんでしょう?」

 朔夜は万年筆を動かす手を止めず、視線も上げない。

「……それがどうした」

「この国ではね、ペンを握る人間とレンチを握る人間は、住む世界がはっきりと分かれているの。将来、ホワイトカラーのエリート層になる教育を受けてきたはずのあなたが、どうして自分から油まみれの道を選んだのかしら。……あなたの同級生たちは、一流大学の学位や、将来の安定した地位……そんな『綺麗な切符』を手に入れるために必死だったはずでしょう?」

「学位や地位……。あんなモラトリアムを金で買う場所に、得られる学びなんて一つも思いつかなかっただけだ」

 朔夜は最後の一線を書き終えると、ようやく顔を上げた。


「俺は十六の時、陰陽師として、自分の足だけで食っていくと決めた。そのために必要なのは、教授の講釈じゃなく、荒野を生き抜くための武器だったんだよ」

「武器……。でも、あなたは勉強自体を捨てたわけじゃない。むしろ、執着しているようにさえ見えるわ」

 アリスがノートを指差すと、朔夜はわずかに眉を寄せた。

「……俺の目には、あいつらが記号でしか世界を見ていないように映ったんだ。休み時間は偏差値に一喜一憂し、放課後は予備校の椅子取りゲーム。……滑稽だったよ」

「競争が嫌いだったの?」

「いいや。競争の先にあるものが『虚飾』だからだ。……その一方で、将来の不安を誤魔化すように、実体のない恋愛だの遊びだのと言って刹那的な熱狂に身を投じる。……昨日まで『好きだ、愛してる』と囁き合っていた口で、翌日には他人を悪口で叩く。そんな不確かなものに縋って生きるくらいなら、独りでいる方がマシだと思った」

「それで、独りでペンを置いて、スパナを握ったの?」

「周囲が受験勉強や恋の駆け引きに血道を上げている間、俺は陰陽師としての修行を行う一方で、独学でTOEICを片付け、FPや簿記の資格も揃えた。経済の仕組みと、言語の壁を越える手段。それだけあれば、誰にも媚びずに生きていけるからな」

 そこで言葉を切り、朔夜はふっと自嘲気味に口角を上げた。


「……まあ、今思えば、自分には恋愛なんて縁がなかったからな。連中が羨ましかった分、『俺は他人とは違う生き方をしているんだ』と思い込むことで、その惨めさを誤魔化していただけかもな」


 不意に零れたその本音に、アリスは紅茶を運ぶ手を止め、瞬きをした。孤独を「特別」という鎧で包み隠していた少年の、痛々しいまでの自尊心がそこにはあった。

「……サクヤ。でも、そうやって自分を律して手に入れた力は、本物よ。……それで、そのバイクの整備資格はどうやって? 独学じゃ無理でしょう?」

「……バイクを陰陽師の活動に取り入れる事を決めて、毎日制服のまま街外れの古いバイク屋に通い詰めた。一流大学を目指す連中が塾の窓から俺を見て、『ドロップアウトした変人』だと指を差して笑っているのがわかったよ」

 朔夜は、ハヤブサの銀色のカウルをそっと撫でた。

「だが、泥のような廃油を浴び、三年間かけて『三級二輪整備士』の免状を掴み取った時、俺は確信したんだ。人は裏切るし、感情は移ろう。だが、物理の規律だけは、人間の身勝手な都合で捻じ曲がることはない。機械と数字だけは、決して裏切らないんだ」

「それが、あなたの信じられる唯一の『真実』だったのね」

 アリスの静かな問いに、朔夜は力強く頷いた。

「資格だってそうだ。当時は俺のことを『資格バカ』と揶揄する奴もいたが、肩書きや家柄、人間関係なんてものは、時代が変われば一夜にして剥ぎ取られる。だが、血を吐く思いで脳に刻み、その証として手に入れた知識や技能だけは、誰にも奪われない唯一の財産……真の自由なんだよ」


 アリスは、朔夜の言葉に滲む、壮絶なまでの誠実さに胸を打たれた。

「……そうだったのね。でもサクヤ、安心して。その『裏切らないもの』しか信じられなかったあなたが、今、自分の手で勝ち取ったライセンスで、私を助手席に乗せて走ろうとしている。……それって、すごく素敵な旋律だと思わない?」

「…………。なし崩しだと言っただろ。……それに、お前の運転は、機械以前の問題で『危なっかしい』からな。俺がハンドルを握った方が、生存確率が上がる。ただ、それだけだ」

 朔夜は照れ隠しを込めて、ぶっきらぼうに突き放した。すると、アリスは待っていましたと言わんばかりに、唇の端をいたずらっぽく吊り上げた。

「あら、もう少し私を敬ってもいいのよ? ……だって、忘れないで。どんなに二輪の理に詳しくても、四輪の免許を先に取って、イギリスの公道であなたの『先輩』になったのは……『私』の方なんだから」

「…………。それは、お前が余計な『ノイズ』を削ぎ落として、要点だけを真っ直ぐに捉えられるからだ。俺みたいに、機械の挙動から周囲の『気』まで多角的に情報を処理しようとする人間は、四輪の不合理なルールに馴染むまで、どうしても時間がかかるんだよ」

 朔夜は、自分の「考えすぎ」な性格を棚に上げつつ、なんとか自尊心を保とうと理屈を並べた。

「ふふ、最高の屁理屈ね、サクヤ。……でも、その『考えすぎ』なあなたが選んでくれたプロの整備、すごくいい音がするわよ」

 アリスが満足げに紅茶を啜る横で、朔夜は顔を背け、新しく手に入れた免許証をポケットにねじ込んだ。


 孤独な闘いの果てに、鉄の鼓動だけを信じてきた少年。その魂を乗せたハヤブサの隣で、今、不格好なミニが、誇らしげに月明かりを跳ね返していた。


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