呪縛の箱と、魂の調律
運河沿いのガレージに、夜の静寂が降りる。
広大な空間には、ハヤブサが放つ鋭い気圧と、半ば解体されたミニの沈黙が混ざり合っていた。朔夜はソファに深く腰掛け、指導員から渡された教本を忌々しげに睨みつけていた。
彼にとって、ハヤブサを駆ることは「術」の行使に近い。エンジンの爆ぜる音を呼吸とし、タイヤが路面を掴む感触を触覚として、陰陽のバランスを保ちながら最速の軌跡を描く。だが、この四輪の教本に並んでいるのは、血の通わない規則と、効率だけを求めた無機質な数字の羅列だった。
「……サクヤ、まだそんな顔をして教本を睨んでいるの? せっかくの新しい家が、あなたの放つ『不機嫌な音』で震えているわよ」
キッチンから、淹れたての紅茶の香りと共にアリスが現れた。彼女は朔夜の隣に当然のような顔をして腰を下ろすと、彼の手から無理やり教本を取り上げた。
「……。筆記の理屈は頭に入っている。だが、この『箱』には魂の通う隙間がねえ。どこまで行っても、ただの動く檻だ」
「あら、陰陽師ともあろうお方が、たかが鉄の箱一つ御せないなんて言わないわよね? ……いいわ、私が試験官をやってあげる。あなたがこの箱に『理』を見出せているか、試してあげるわ」
アリスはいたずらっぽく微笑み、背筋を伸ばしてわざとらしく厳格な試験官を演じてみせた。
「ミスター・サクヤ。……試験を始める前に、車両の安全点検(Show Me, Tell Me)を行うわ。……この車両のボンネットを開け、エンジンオイルが規定量にあることを確認する方法を教えなさい。言葉と動作で、正確にね」
朔夜は不快そうに鼻を鳴らしたが、アリスの真っ直ぐな瞳に気圧され、重い腰を上げた。
「……ボンネットを開け、ディップスティックを抜き取る。一度汚れを拭い、再び差し込んでから引き抜き、オイルの付着が二つの印の間にあるかを確認する。……それだけだ。そんな表面的な確認に何の意味がある。俺なら、アイドリングの微かな振動だけで油膜の厚さがわかる」
「不合格よ。試験官はあなたの『霊感』なんて採点してくれないわ。……サクヤ、あなたはバイクの上では神様かもしれないけれど、この車の中では、ただの『不器用な人間』なの。それを認めなさい」
アリスがくすくすと笑い、朔夜の眉間の皺を指先でそっと押し広げた。
その指先の柔らかさが、張り詰めていた朔夜の「気」をふっと緩ませる。運河を流れる水の音が、壁を伝って低い低周波のように心地よく響いていた。
「……。人間、か。……確かに、この座席に縛り付けられていると、自分の身体が自分のものではないように感じる」
「それは、あなたが一人で風を背負おうとしすぎているからよ。……サクヤ。車は、隣に誰かを乗せて、同じ景色を共有するための道具。……私が隣であなたの音を聴いている間くらい、その『術』を解いて、ただの運転手になってみせて?」
アリスはそう言って、朔夜の肩に静かに頭を預けた。
かつてのベーカー街では、こうして無防備に寄り添うことすら、どこか「契約の一部」のような緊張感があった。だが今は、なし崩し的に始まった生活の欠片たちが、確かな質量を持って二人の間を埋めている。
「……明日の模擬試験、受かったら。……ミニの修復、お前にも手伝ってもらうかもしれねえ。……『気』の流れを見るだけじゃ、どうしても手が足りない部分がある」
朔夜は視線を教本に落としたまま、ぼそりと付け加えた。
「させてやる」ではなく、自分から「助けが必要だ」と口にすること。それは彼なりの、最大限の譲歩であり、アリスへの信頼の証だった。
「ええ……。喜んで、あなたの『隣』を務めさせてもらうわ。……だから、明日はくれぐれも、試験官を呪ったりしないでね?」
「…………しねえよ。……たぶん」
朔夜は、預けられたアリスの重みを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
陰陽師としての鋭すぎる感性が、四輪という不自由な器を受け入れ、新しい共鳴を奏でようとしている。
その答え合わせの朝は、もうすぐそこまで来ていた。




