朝の不協和音と、Lプレートの屈辱
運河沿いの新居で迎える朝は、ベーカー街のそれとは全く異なる「音」で始まった。
かつては階下のガレージから響くハヤブサの暖気運転が目覚まし代わりだったが、今はキッチンでアリスが淹れる紅茶の音と、エレーナがハミングしながら朝食を並べる音が、吹き抜けを通じて寝室まで上がってくる。
「……落ち着かねえ」
朔夜はベッドの中で顔を顰めた。孤独に慣れきった彼にとって、自分以外の生活音がこれほど近くで「調和」している状況は、まるで未調整のエンジンに乗っているような居心地の悪さがあった。
階下へ降りると、すでにアリスは身支度を整え、車のキーを指先で弄んでいた。
「おはよう、サクヤ。……あら、随分と不機嫌な音ね。もしかして、昨日の私の縦列駐車が完璧だったのが、まだ悔しいのかしら?」
「……寝不足なだけだ。あの運河の水の音が、夜中に妙に響きやがる」
「あら、それは楽しみね。今夜はもっと静かに眠れるように、たっぷり『練習』に付き合うわよ」
アリスがテーブルに置いたのは、一枚の赤い「L」の文字が書かれたプレート(L-plate)だった。イギリスで仮免許の者が公道を走る際、車体の前後に掲示が義務付けられている「初心者の証」だ。
「……。それを、あのミニに貼れってのか」
「ええ。私が隣に座れば、法的にはあなたが運転していいんだから。……それとも、一人でバスに乗って教習所まで通う? 指導員(ADI)に『まだ二輪の乗り方をしてる』って怒鳴られに」
朔夜は言葉を失った。アリスは今や「免許保持者」という絶対的な優位に立っている。彼女が隣に座ることで、初めて彼は公道で四輪を動かす「権利」を得るのだ。
ガレージに降り、朔夜は屈辱に震えながら、埃を被ったミニのバンパーにマグネット式のLプレートを貼り付けた。最速を誇った男のプライドが、真っ赤な「L」の文字によって塗りつぶされていく。
「……準備はいい、サクヤ教習生? クラッチを繋ぐ前に、まずは周囲の安全確認よ」
助手席に収まったアリスが、かつて朔夜が彼女に教えた通りの厳格さで告げる。
朔夜は重いハンドルを握りしめ、足元のペダルの感覚に神経を尖らせた。ハヤブサなら思考より先に身体が動くが、この鉄の箱の中では、自分の身体が自分のものではないように感じる。
「……わかってる。……出すぞ」
慎重に、あまりに慎重にクラッチを繋ぐ。ミニがガクンと揺れ、ゆっくりとガレージを這い出した。その瞬間、アリスがふっと表情を和らげ、朔夜の横顔を覗き込んだ。
「……サクヤ。あなたの心音、さっきよりずっと速いわよ。バイクで時速300キロ出す時よりも、ずっと」
「……うるせえ。……前を見てろ、教官」
運河沿いの細い道を、Lプレートを貼ったボロボロのミニが、頼りない足取りで進んでいく。
最速の男が味わう、人生で最も遅く、そして最も距離の近い「共同作業」。
二人の新しい旋律は、そんな不格好なアイドリングから、なし崩し的に始まっていた。




