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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十六章:アディショナル・タイム ―逆転の助手席―
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チェック・ミラー、チェック・マイ・ハート

ロンドン郊外の公道。Lプレートを掲げた教習車の運転席で、朔夜はこれまでにない屈辱を味わっていた。


「……ミスター・サクヤ。まただ。また右左折の時に、無意識に体がイン側に傾いている。ここはバイクの上じゃない。そんなに肩を入れなくても、車はちゃんと曲がるんだ」

 助手席の指導員が、頭を抱えながら呆れたように言う。

 二輪で「超一流」であるがゆえの弊害だった。コーナーが迫るたびに、朔夜の脳は「車体を寝かせて旋回しろ」と指令を出してしまう。結果、ハンドルを切るのが遅れたり、不自然に上体が揺れたりして、四輪特有の「横G」に翻弄されていた。

「……ちっ。……わかってる。わかってはいるんだ」

 朔夜の額に、焦燥の汗が滲む。

 さらに彼を苦しめていたのは、長年の相棒であるハヤブサとの違いだ。右手のスロットルではなく右足のペダルで加速し、クラッチも足で操作する。身体に染み付いた「最速の音」を出すための回路が、四輪という「不自由な箱」の中で激しくショートしていた。


 そんな彼の姿を、後方の車で見守っていたアリスが、練習後の合流地点でくすくすと笑いながら出迎える。

「お疲れ様、サクヤ。今日も指導員さんに『四輪は二輪の延長じゃない』って怒られてたわね」

「……笑うな。お前こそ、ミラーの確認不足でまた叱られたんだろ」

「いいえ。私、さっきの教習で『これならもう、実技試験ドライビング・テストを受けても大丈夫』ってお墨付きをもらったわ」

「…………は?」

 朔夜が硬直する。

 アリスは鼻歌まじりに、カバンから一足先に合格した「筆記試験」の証明書をひらひらと振ってみせた。

「耳がいいのは、運転にも役立つみたい。周りの車の動きが、音だけで手に取るようにわかるもの。……サクヤ、ごめんなさいね。私の『隣』への予約、思ったより早く現実になりそうよ?」

「……おい、待て。俺を置いていく気か」

「あら、置いていかないわよ? 私が免許を取ったら、アビの代わりに私があなたの練習に付き合ってあげる。……助手席から、たーっぷりとね」



 それから数日後。

 試験場の駐車場に、一台のハッチバックが滑り込んだ。

 運転席から降りてきたアリスは、緊張の糸が切れたのか、その場にへなへなと座り込みそうになる。その後ろを、大型バイクで追走していた朔夜がハヤブサを止め、ヘルメットを脱ぎ捨てて駆け寄った。

「……どうだった」

 アリスは無言で、試験官から手渡された一枚の書類を突き出した。そこには、大きなチェックマークと共に『PASS』の文字が刻まれている。

「サクヤ……受かった。私、本当に受かっちゃったわ……!」

 喜びを爆発させるアリスに対し、朔夜は「ふん」と鼻を鳴らした。だが、その瞳には安堵の色が混ざっている。

「……当然だ。俺が後ろからプレッシャーをかけてたんだからな。……で、そいつ(ライセンス)が届くまでは、まだ一人じゃ乗れねえんだろ?」

「いいえ。今は合格証明書があれば、正式な免許証が届く前でも一人で運転していいのよ。……サクヤ、準備はいい?」

 アリスは立ち上がり、腰に手を当てて不敵に笑った。

 一方の朔夜は、まだ「二輪の旋回癖」が抜けず、指導員から「試験は来月までお預けだ」と通告されたばかりだ。

「……何をだ」

「決まってるじゃない。あなたの『隣』への初ドライブよ。……ハヤブサはここに置いていきなさい。私が、あなたを送り届けてあげるから」


 数分後。

 朔夜は、人生で初めて、アリスがハンドルを握る車の「助手席」に収まっていた。

 バイクのタンデムシートとは違う、肩が触れそうなほど近い、けれど横並びの距離。

 バイク乗りにとって、最も不自由で、最も近くて遠かった場所。

 そこに座った瞬間、朔夜の視界に飛び込んできたのは、ハンドルを握り、いたずらっぽく微笑む彼女の「横顔」だった。

「……安全運転で頼むぞ。……教官」

「ええ、任せて。サクヤ。――出発するわね」

 アリスが軽やかにクラッチを繋ぐ。

 二人の、立場が逆転した初めてのドライブが、運河のせせらぎと共に静かに始まった。

「……おい、ミラーは見ろよ。さっきから左が甘いぞ」

「わかってるわよ。……ねえ、サクヤ。そんなにドアの取っ手を強く握らなくても、私は運河に突っ込んだりしないわ」

 アリスの運転は、彼女の奏でる旋律と同じく、繊細で淀みがない。

 朔夜は、バイクに乗っている時には決して味わえない「視界」に戸惑っていた。風を切る音も、エンジンの咆哮も、強化ガラスに遮られて遠い。車内に満ちているのは、アリスの微かな呼吸音と、彼女がハミングする柔らかなメロディだけだ。

「……変な感じだ」

「何が?」

「いつもは俺の背中にお前がいた。……今は、お前の横顔がこんなに近くにある」

 朔夜がぼそりと呟くと、アリスの頬がわずかに赤く染まった。

 彼女は前方を見つめたまま、シフトレバーを握る左手を、一瞬だけ朔夜の手の甲に重ねた。

「……嫌?」

「……。……悪くねえ。……エンジンの音は、まだ少し『およいでる』がな」

「ふふ、厳しいわね。……でも、嬉しいわ。あなたが私の運転する車で、そんなに大人しく座っててくれるなんて」

 アリスはシフトを上げ、アクセルを軽く踏み込む。

 運河沿いの新居へと向かう道。

 かつては最速で駆け抜けていた景色が、今日はアリスの「四輪の速度」で、ゆっくりと、けれど確かに新しく塗り替えられていった。

 それは、誇り高きバイク乗りが、自分以外の「音」に命を預けることを受け入れた、最初の午後だった。


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