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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十五章:クロス・フェード ―混ざり合う残響と、四輪の誓い―
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城の鍵、心の鍵

 引っ越し当日。

 ベーカー街を離れる朝は、ロンドンらしいしっとりとした霧雨に包まれていた。

 ガレージの前では、手際よく荷物を積み込んだ業者のトラックが既に出発を待っていた。朔夜が落札したボロボロのミニも、専門の積載車に固定され、一足先に運河へと向かう。

 残されたのは二台の乗り物だ。

 一台は、鈍い銀光を放つ朔夜の愛車、ハヤブサ。

 そしてもう一台は、アビゲイルが「練習に使いなさい」と貸し出した、赤い「L」のプレートを貼ったハッチバック。その運転席には、ハンドルを握りしめたアリスが、緊張で少し強張った表情で座っていた。

「……アリス、落ち着け。隣にはアビがいる。お前が聴いた『正しい音』の通りに、クラッチを繋げばいい」

 フルフェイスのヘルメットを被ったまま、朔夜が窓越しに声をかける。助手席で「私の貴重な休日を、あんたたちの教習ごっこに捧げる羽目になるなんてね」と溜息をつくアビゲイルを尻目に、アリスは深く息を吐き、小さく頷いた。

「ええ……。エレーナ、しっかりシートベルトを締めててね。サクヤ、後ろから見守ってて」

 ハヤブサが野太い排気音を上げ、アリスの運転する車を後方からガードするように走り出す。ロンドンの複雑な通りを、最速のバイク乗りに見守られ、そして不機嫌な上司を隣に乗せて、初心者のアリスが慎重に新しい未来へと進んでいく。


 数十分後。たどり着いた東部の運河沿いは、かつての洗練された街並みとは対照的な、無骨な鉄とレンガの匂いが立ち込める場所だった。

「――ここが、新しい『ガレージ』か」

 ハヤブサを止め、朔夜が錆びついた巨大なシャッターを見上げる。

 鍵を差し込み、力任せに引き上げると、高い天井に音が反響し、埃の舞う広大な空間が姿を現した。一階は三台の車が余裕で入る作業場、そして奥の鉄製階段を上がれば、温かみのある木材でリノベーションされた住居スペースが広がっている。

「……すごい! サクヤ、運河の水の音が、壁を伝って優しく響いてる。ここなら、私の歌もお姉様の楽器も、もっと自由に鳴らせるね」

 車を降りたエレーナが、真っ先に階段を駆け上がり、自分の部屋になるであろう屋根裏へと消えていく。アビゲイルが「さて、私の『休日出勤』はここまでよ。次は一人でここまで来なさい。じゃあね」と、呆れたように、けれどどこか満足そうに車を回収して去っていった後。残された二人は、まだ何もない、けれど可能性に満ちた作業場の真ん中で立ち尽くしていた。


「……広すぎて、少し落ち着かないわね」

 アリスがぽつりと呟く。

 ベーカー街のあの狭いガレージでは、常に肩が触れ合うような距離にいた。ここでは意識しなければ、相手の気配が遠くなってしまう。その「自由」が、今は少しだけ不安だった。

「……すぐに埋まるさ。俺の工具と、業者が降ろしていったあのボロいミニと……あと、お前がいつも大切にしてる、あの楽譜たちでな」

 朔夜はガレージの隅に収まったミニのボンネットにそっと手を置き、アリスに向き直った。

「アリス。……俺は、ずっと一人で走るのが一番効率がいいと思ってた。余計なノイズに耳を貸さず、自分の速度だけで生きていくのが正解だと」

 彼はゆっくりと歩み寄り、アリスとの距離を、かつての狭いガレージと同じ距離まで詰めた。

「でも、あのシェルターで……お前の音が聞こえなくなった時、俺の心臓は、エンジンの焼き付きよりも酷い止まり方をした。……あんな音、二度と思い出したくねえ」

「サクヤ……」

「だから……ここに居ろ。もう助手とか、エージェントの仲間とか、そんな回りくどい言い方はやめだ。……俺の隣で、俺の調律を確認し続けろ。お前がいないと、俺の音は……たぶん、もう二度と正しく鳴らねえからな」

 朔夜の手が、アリスの頬に触れた。油の汚れは綺麗に拭い去られているが、その掌は相変わらず熱く、力強い。

 アリスは、その手に自分の手を重ね、瞳を潤ませながら微笑んだ。

「……ええ。約束したでしょ? あなたの『隣』に予約を入れてるって。……私の音も、もうあなたなしでは曲にならないわ」

 運河を抜ける風が、新しい「城」の隙間を通り抜けていく。

 二人の唇が重なる直前、上の階からエレーナの弾んだ声が降ってきた。

「――サクヤ、お姉様! 私の部屋、すごくいい音がする! 今夜はお祝いに、三人で何か美味しいものを食べよう!」

 空気を読まない、けれど最高に明るい「不協和音」。

 朔夜は苦笑し、アリスは顔を赤くして笑った。

「……全くだ。……アリス、行くぞ。新しいキッチンの使い心地、試してみろ。お前の淹れる紅茶の音がしねえと、どうにも落ち着かねえんだ」

「はい、サクヤ! 精一杯、美味しい音を鳴らしてあげるわね」

 二人は手を取り合い、新しい生活の階段を一段ずつ、確かな足取りで上っていった。

 ロンドンのノイズに紛れることのない、三人だけの新しい旋律が、今ここから始まりを告げた。

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