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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十五章:クロス・フェード ―混ざり合う残響と、四輪の誓い―
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境界線を越えて

「……ベーカー街からは、随分と離れることになるわね」

 アリスが、朔夜の差し出したタブレットの地図を覗き込みながら、少し寂しそうに、けれど期待を込めた声を漏らした。

 画面には、ロンドン東部、リージェンツ運河のほとりに建つ古い赤レンガ造りの建物が映し出されている。かつては荷受用の倉庫か小さな鉄工所だったのか、煤けた壁には年季が入っているが、その佇まいは今の朔夜のガレージよりも遥かに堂々としていた。

「ああ。あっち(ベーカー街周辺)は気取りすぎてて反吐が出る。……それに、あそこじゃハヤブサの暖機運転もろくにできねえし、エレーナが楽器を鳴らせばすぐに苦情が来るだろうよ」

 朔夜はコーヒーを一口啜り、画面上の物件を指でなぞった。

「ここは一階が丸々作業場で、搬入口もデカい。ハヤブサどころか、例の四輪を入れてもまだ余裕がある。二階の居住スペースは、元々職人の詰め所だったのをリノベーションしてある。……三階は、屋根裏だがエレーナが走り回れるくらいの広さはあるはずだ」

「……サクヤ、ここ、運河の音が聞こえる。水が流れる音は、街のノイズを優しく吸い込んでくれるから好き」

 エレーナがタブレットに耳を寄せるような仕草をして笑う。

 ベーカー街の華やかさはないが、そこには「生活」の音がある。鉄を打つ音、水のせせらぎ、そして隣人の生活の気配。それは今の三人にとって、最も必要な「調律」された環境に思えた。

「でもサクヤ、アビゲイルさんや『局』の拠点からは遠くなるわよね? 仕事に支障はないの?」

 アリスの問いに、朔夜は不敵な笑みを浮かべた。

「むしろ好都合だ。あいつらの監視の目から少しでも離れられる。……俺はあいつらの飼い犬になったつもりはねえ。これからは、ここが俺たちの『城』だ。……アリス、お前も楽器店まで少し遠くなるが、それこそ……」

 朔夜は言いかけて言葉を飲み込み、視線を逸らした。

「……それこそ?」

「……だから、あの四輪だ。お前が免許を取るまで俺が送ってやるし、慣れたらお前がエレーナを乗せて走ればいい。……そのために、俺が最高に『鳴る』足に仕上げてやるって言ってるんだ」

 それは、朔夜なりの「新しい生活」への責任の取り方だった。

 ベーカー街という既存の枠組みから踏み出し、自分たちの足で新しいリズムを刻み始める。

「ふふ、そうね。……ベーカー街の紳士たちには似合わない、私たちらしい泥臭くて温かい場所になりそう」

 アリスが朔夜の肩にそっと頭を預ける。

 以前なら反射的に身を強張らせていた朔夜だったが、今はただ、重くなる肩の感触を無言で受け入れていた。

「……決まりだな。アビには俺から言っておく。……引っ越しは来週だ。準備しておけよ」

 朔夜の声は、いつになく穏やかだった。

 運河を渡る風が、新しい拠点への予感を孕んで、ガレージの狭い隙間を吹き抜けていった。


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