重なる残響
ロンドンの夜を裂くハヤブサの排気音が、いつものガレージの前で止まった。
エンジンを切ると、不自然なほどの静寂が訪れる。だが、シェルターのあの「無」とは違う。アスファルトの熱気、遠くを走る車の走行音、そして何より――密着した二人の、重なり合った呼吸の音がそこにはあった。
「……着いたぞ」
朔夜がぶっきらぼうに言うが、腰に回されたアリスの腕には、まだ微かに力がこもっている。シェルターでの「頬へのキス」以来、二人の間には、触れ合っているのが当然であるかのような、甘く痺れるような空気が澱んでいた。
「……もうちょっとだけ。……サクヤの背中の音、まだシェルターの余韻が残ってて、すごく切ない音がするから」
「……そんなもん、ただの気のせいだ」
朔夜はそう言いながらも、アリスの手を無理に振り払おうとはしなかった。
ガレージのシャッターを上げると、待ちわびていたエレーナが、影のようにスッと現れた。彼女は二人の姿を見た瞬間、その透き通った瞳をさらに細め、いたずらっぽく唇の端を上げた。
「……おかえり、二人とも。……すごい。ガレージの中が、急に『熱い音』でいっぱいになった」
「エ、エレーナちゃん。ただいま。……熱いって、それはサクヤが激しい戦いをしてきたからで……」
アリスが真っ赤になって離れるが、エレーナは首を横に振った。
「違う。サクヤの音、さっきからずっとお姉様の音に甘えてる。シェルターで、特別な『共鳴』を見つけてきたんでしょ? 二人だけの、内側の音」
「……おい、適当なこと言ってると、明日のメシ抜きにするぞ」
図星を突かれた朔夜が、見たこともないほど盛大に動揺し、ウェスを落とした。
そんな二人を見つめながら、エレーナはふふっ、と大人びた笑みを漏らし、ガレージの狭いソファを指差した。
「でも、ここはもう狭すぎるね。お姉様が私の髪を編む場所も、サクヤがお姉様を……その、抱きしめる場所も足りない」
「な、何を言って……っ!」
「私、知ってるよ。サクヤ、夜にこっそり不動産のサイトを見てたでしょ? ロンドンの東側、運河沿いの古い修理工場。2階に広い部屋があるところ。……あそこなら、私の部屋もお姉様のキッチンも、サクヤの大きな作業場も、全部入るから」
朔夜は、今度こそ完全に言葉を失った。
シェルターの任務の最中、もし生きて帰れたら……と考え、無意識に検索していた「3人で暮らすための場所」。それをエレーナの耳が、キーボードを叩く音から全て聴き取っていたのだ。
「……ちっ。……環境が変われば、仕事の効率が上がると思っただけだ。……アリス、お前もその、今のボロい部屋よりはマシだろうが」
顔を背けながら言う朔夜の言葉は、事実上の「同棲」の提案だった。
アリスは驚きに目を見開いた後、ゆっくりと、幸せそうに微笑んだ。
「ええ。サクヤが選んでくれた場所なら、どこだって最高にいい音が響くはずだわ。……ねえ、エレーナちゃん。三人で、新しい譜面を書き始めましょうか」
「うん。……サクヤ、早く契約してこないと、他の誰かに取られちゃうよ?」
エレーナに背中を押され、朔夜は乱暴に髪を掻き回した。
鉄と油の匂いだけだった彼の人生に、アリスという旋律と、エレーナという伴奏が加わり、一つの「家庭」という形の曲が、なし崩し的に、けれど確実に形作られようとしていた。




