深淵の鼓動
朔夜の左腕から放たれた紫電が、シェルターのコンクリート壁を爆砕した。
瓦礫が崩れ落ちる音さえも瞬時に「無」へと吸い込まれていく中、二人の眼前に現れたのは、直径数メートルに及ぶ巨大な「負の球体」だった。それは空中に静止し、ドクン、ドクンと周囲の空間を歪めながら脈動している。アビゲイルが言っていた「真空の心臓」そのものだ。
「……あ、あぁ……っ!」
アリスが朔夜の胸元で小さく悲鳴を上げ、身を震わせた。
心臓が脈動するたび、彼女の耳には「音」ではなく「概念」としての死が流れ込んでくる。それは、この世のすべての旋律を否定し、あらゆる存在を静止した塵へと変えようとする、宇宙の断末魔のような響きだった。
「アリス、目を開けろ! 呑まれるなと言ったはずだ!」
朔夜は、腕の中のアリスをさらに強く抱きしめた。
もはや「背中に掴まれ」という段階ではない。この絶対的な虚無の中では、互いの肉体が触れ合っていなければ、精神がバラバラに霧散してしまう。朔夜は己の魔力をあえて暴走気味に循環させ、自身の体温を極限まで引き上げた。冷え切ったアリスを凍えさせないため、そして自分自身がこの静寂に屈しないための、必死の抗いだった。
「……サクヤ、熱い……。あなたの音が、すごく激しく鳴ってる……」
「当たり前だ。俺は生きてるし、お前も生きてる。……その化け物に、俺たちのテンポを狂わされてたまるか」
朔夜は、恐怖に震えるアリスの右手をそっと取り、自分の左手のユニットに重ねさせた。
鉄と魔力の冷たい感触。だが、その芯には朔夜の魂が燃やす猛烈な熱が宿っている。
「アリス、聴け。あいつが次に音を吸い込む瞬間……その一瞬だけ、逆に外へ吐き出す『隙間』ができるはずだ。そこを狙って、俺の最大火力を叩き込む。タイミングを教えろ」
「……吸い込む、瞬間……。……ううん、ダメ。リズムが速すぎて、聴き分けられない……。全部が混ざって、真っ黒な闇にしか……」
アリスの視界が、絶望に曇る。
その時、朔夜は迷いを捨て、彼女の耳元に唇を寄せた。
「俺を信じろ、アリス。お前が聴けないなら、俺の心音に重ねろ。俺はお前の音を、いつだって聴き分けてきた。……今度はお前が、俺の中に流れてる『音』を導け」
それは、孤高に生きてきた朔夜が、他者に自らの命運を、そして剥き出しの内心を委ねた瞬間だった。
アリスの瞳に、再び光が宿る。彼女は朔夜の胸に耳を押し当て、外側の死の鼓動ではなく、内側の生の激動に意識を同期させた。
――ドクン。
――ドクン。
朔夜の心音。荒々しく、不器用で、けれどどこまでも真っ直ぐに彼女を守ろうとする旋律。
アリスはその音の中に、朔夜が口には出さない、けれどずっと彼女に伝えたかった「何か」を聴き取った。それは言葉になる前の、純粋な共鳴。
「……今よ、サクヤ!!」
アリスの叫びと同時に、朔夜は重ねられた彼女の手の上から、全魔力を解放した。
真空の心臓が音を飲み込みきり、次の脈動へ移るコンマ数秒の刹那。
二人の指先から放たれた極太の雷光が、絶対零度の静寂を真っ二つに切り裂き、虚無の核へと突き刺さった。
世界が、初めて「悲鳴」を上げた。




