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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十四章:ロスト・レゾナンス ―共鳴の欠落と、繋がる指先―
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静寂の断崖

 ロンドン郊外の丘陵地帯。かつて冷戦期に築かれたという政府の秘密シェルターは、鬱蒼とした森の奥深くにその口を開けていた。

 ハヤブサを降りた朔夜とアリスを迎えたのは、鳥の声も、風に揺れる葉の音も、自分たちの足音さえも吸い込まれていくような、異様な「無」の領域だった。

「……気持ち悪いわ。自分の呼吸の音さえ、喉元で消えていくみたい」

 アリスがインカム越しに囁く。その声も、電気信号に変換されているはずなのに、どこか遠い世界の出来事のように頼りない。

 朔夜は無言で左手の術式ユニットを点検し、予備の魔力カートリッジをベルトに差し込んだ。

「これより先は、物理法則が死んでる領域だ。空気が震えねえってことは、魔術の伝播効率も極端に落ちる。……アリス、俺の背中から一歩も離れるな。もしお前が何かに連れ去られても、悲鳴一つ聞こえねえんだからな」

「……分かってるわ。サクヤの背中、絶対に見失わないから」

 アリスは朔夜の革ジャケットの裾を、指が白くなるほど強く握りしめた。二人は一歩、また一歩と、真っ暗な防空壕の奥へと足を踏み入れる。


 シェルターの内部は、腐食した鉄の匂いと、滞留した冷気に満ちていた。

 懐中電灯の光が壁をなめるように進むが、その光さえも、この圧倒的な沈黙に侵食されているかのように暗い。通路の途中で、調査に訪れた局の隊員たちが力尽きているのを発見した。彼らには外傷一つなく、ただ「音を奪われた」衝撃で心停止を起こしたかのように、安らかな、だが不気味な死に顔で横たわっていた。

「……サクヤ、待って。……聴こえた」

 アリスが突然、その場に立ち止まった。

 彼女は瞳を閉じ、神経のすべてを耳――あるいは魂の鼓膜へと集中させる。

「音がないんじゃない……。この奥に、とてつもなく巨大な『黒い穴』が口を開けて、世界中の音を吸い込み続けてるの。……ドクン、ドクンって……まるで、心臓みたいなリズムで」

「心臓だと? 誰の心臓だ」

「分からない。でも、そのリズムが響くたびに、私の意識が持っていかれそうになる。……『もう頑張らなくていい』『静かな闇の中に溶けてしまいなさい』って、誰かが耳元でずっと囁いてるの……!」

 アリスの体が、ガタガタと震え始める。彼女の鋭すぎる感性は、ノイズを特定する前に、その圧倒的な虚無の意志に同調シンクロしかけていた。

 彼女の指が、朔夜の背中から力なく滑り落ちそうになる。

「――おい! アリス!!」

 朔夜は咄嗟に振り返り、崩れ落ちるアリスの体を両腕で抱き寄せた。

 冷え切った彼女の体温が、ジャケット越しに伝わってくる。朔夜は己の左手に微弱な電撃を走らせ、あえてそのパチパチという「痛み」を伴う衝撃を彼女に流し込んだ。

「意識を手放すな! そいつは『音』じゃねえ、ただの死の誘いだ。……しっかりしろ。俺の鼓動リズムだけを聴いてろ!」

 朔夜はアリスを自分の胸元に強く引き寄せ、耳元で低く、だが力強く言い放った。


 アリスは朦朧とする意識の中で、朔夜の胸の奥で激しく、そして誠実に打ち鳴らされる心音を聴いた。それは、どんな魔術よりも雄弁に、彼女の存在をこの世界に繋ぎ止める「生」の旋律だった。

「……サクヤ……。ごめんなさい、私……」

「謝る暇があったら、その心臓の『核』を見つけろ。……独りじゃ無理でも、俺がいる。俺の魔力を、お前のフィルタに使え」

 朔夜は抱き寄せたまま、アリスの耳に自分の左手をそっと当てた。

 雷法による電磁シールドが、アリスの聴覚を外界の虚無から守る障壁となる。

 二人の体温が混ざり合い、沈黙の支配する極限状態の中で、彼らの距離はかつてないほどに消失していた。

「……見えるわ。……三時の方向、この壁の向こう側に……すべての音を飲み込んでいる、真っ黒な旋律の源がある!」

「――よくやった。そこから先は、俺の仕事だ」

 朔夜はアリスを片腕で庇うように抱きかかえたまま、左手のユニットを最大出力で解放した。

 二人の共鳴が、世界から奪われた「音」を取り戻すための、最初の一撃へと収束していく。


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