ガレージの新しい旋律
ノーウッド邸の事件から数週間後。
エレーナの処遇については、「局」による厳重な保護プログラムが適用されるはずだった。しかし、調整は難航した。エレーナが、自分を絶望の淵から救い出してくれた「音」の持ち主であるアリスと、そして強引に沈黙を切り裂いて光を見せてくれた朔夜の二人から、片時も離れたがらなかったからだ。
結局、エレーナはアリスが働く楽器店の二階に下宿し、日中は店を手伝いながら、放課後や休日は「監視」という名目のもと、朔夜のガレージへ入り浸ることになった。
――今やガレージの風景は、以前よりも確実に賑やか(あるいは騒がしく)なっている。
「……おい。そこ、油が付くから座るなと言ったはずだぞ。あとそのオルゴール、ネジを巻きすぎるな。金属疲労を起こす」
朔夜がハヤブサのエンジンを調整しながら、背後に向かって低く唸る。
ガレージの片隅、いつもはアリスが陣取っているソファには、今や当然のような顔をしてエレーナも並んで座っていた。
「大丈夫。サクヤの音は、怒っていても壊さない音だから。……ねえ、アリス?」
エレーナが小首をかしげて隣を見ると、アリスは淹れたての紅茶をトレイに乗せて、困ったような、でも嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「もう、サクヤ。エレーナちゃん、あなたが工具を置く音でさえ楽しそうに聴いてるんだから、そんなに眉間にシワを寄せないの。……はい、これ。今日は少し甘めのミルクティーよ」
「……ふん」
朔夜はウェスで手を拭い、ぶっきらぼうにカップを受け取る。その際、アリスの指先と朔夜の指がわずかに触れ合うが、朔夜は平然とした顔で視線を逸らし、すぐさま作業に戻ってしまう。
その様子を、エレーナはジッと、それこそ音の揺らぎ一つ逃さないような鋭い感性で見つめていた。
「……アリス。お姉様」
朔夜がバイクの奥に頭を突っ込んだのを見計らって、エレーナが小声で囁いた。
「サクヤとお姉様は、いつになったら……その、『特別な音』になるの?」
アリスは思わず紅茶を吹き出しそうになり、顔を真っ赤にした。
「え、エ、エレーナちゃん!? 何を急に……」
「だって、聞こえるもの。お姉様がサクヤを見る時の音は、春の風みたいにそわそわしてるのに。サクヤの音は……大きな岩みたいに動かなくて。……あの日、あんなに格好よく助けてくれたのに、今は少し、じれったい」
アリスは、はあぁ……と深い溜息をつき、エレーナの隣に腰を下ろした。
「そうなのよ、エレーナちゃん。聞いてくれる? この人ったら、あんなに情熱的な音を出して私を抱き寄せてくれたりするくせに、終わってみればすぐバイクの話か、仕事の話ばっかりで……」
「……進まないのね」
「そうなの! 全然進まないのよ! 私がどれだけ『音』に想いを込めても、彼はそれを全部『いい整備ができた』くらいの解釈で受け取っちゃうんだから。……本当に、このガレージのシャッターよりも心が重たいんだからね」
アリスが頬を膨らませて愚痴をこぼすと、エレーナは少しだけ大人びた微笑を浮かべ、そっとアリスの手を握った。
「大丈夫。サクヤの音、本当はお姉様の音を追いかけて、すごく優しく共鳴してるから。ただ……それを外に出すのが、とっても怖いみたい。不器用なだけなの」
「……え?」
「私が、後ろから少しだけ『不協和音』を鳴らしてあげる。サクヤがびっくりして、隠してるその音を慌てて出しちゃうような……お姉様を抱き寄せちゃうような、そんな音を」
エレーナの瞳には、朔夜の無骨な態度に隠された、アリスへの深く静かな熱情がはっきりと「聴こえて」いるようだった。
「うふふ、心強いわね。お願いしようかしら」
クスクスと笑い合う二人の女性。
その背中に向かって、バイクの影から朔夜の低い声が飛んできた。
「……おい。聞こえてるぞ。変な術を考案する暇があったら、さっさとその茶を片付けろ。……次のツーリングは、サイドカーを付ける羽目になりそうなんだからな」
その言葉の意味を理解した瞬間、アリスの顔がパッと輝いた。エレーナを独りぼっちにせず、連れて行くための準備を、彼なりに進めているということだ。
「……やっぱり、サクヤの音は不器用ね」
アリスはエレーナと顔を見合わせ、今度は心底幸せそうに笑った。
油と鉄の匂いが漂うガレージに、新しい、そして少しだけ騒がしくて温かい旋律が加わった瞬間だった。




