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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第二章:ラスティ・メロディ ―異邦の術者と、調律の隣人―
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調律された呪いと、共鳴する沈黙

 楽器店の奥、修理待ちの大型楽器が棺桶のように並ぶ薄暗い空間に、その「震源地」はあった。

 使い込まれた黒塗りのグランドピアノ。その天板には厚い埃が積もり、鍵盤の一部はまるで力尽きたように沈み込んでいる。

「……これね。半月ほど前から、いくら調律しても音が濁り始めたの」

 背後に音もなくついてきたアリスが、消え入るような声で言った。

 朔夜がスマホのプラグインで焦点を合わせると、ピアノの内部から粘着質な黒い霧――霊的な不純物が、まるで弦に絡みつく真綿のように溢れ出しているのが見えた。

「これは、楽器そのものの怨念じゃないな。……『音』を喰う性質を持つ、下級の霊だ。誰かが意図的にここに置いていったか、あるいは君の調律が完璧すぎて、純粋な音を求めて迷い込んだか」

 朔夜は無造作に懐から自作の符を取り出した。

 彼にとって、この程度の除霊は、バイクのプラグ交換よりも単純な作業だ。だが、いざ術を展開しようとした瞬間、隣に立つアリスの視線が、彼の手元をじっと見つめていることに気づいた。

「……あ、あの。それは、日本の魔法かしら?」

「魔法ではない、術だ。……あと、あまり近くで見るな。集中力が削がれる」

 実際には、術の展開に彼女が近くにいても何ら支障はない。

 だが、ふわりと漂う紅茶の香りと、彼女の真剣な眼差しが、朔夜の演算精度を数パーセント低下させていた。彼は咳払いを一つし、ピアノの鍵盤を一つ、強く叩いた。

 ――ジャァァァン。

 割れたガラスを擦り合わせたような、不快な音が部屋に響く。

 その振動を捉え、朔夜は符を弦の隙間へと滑り込ませた。

「『静謐せいひつを以て、濁音を断つ』。……急々如律令」

 低い声で紡がれた呪文と共に、符が淡い白光を放つ。

 ピアノの内部で蠢いていた黒い霧が、光に焼かれて悲鳴のような高音を発し、霧散していく。アリスが耳を塞いで身を屈めた。


 数秒後。店内に、本来の静寂が戻ってきた。

 朔夜は軽く肩を回し、スマホの画面で霊子反応が消失したのを確認する。

「終わった。これで俺のバイクもまともにアイドリングするだろう」

 そう言い捨てて立ち去ろうとする朔夜の腕を、温かな感触が引き留めた。

 アリスが、彼のジャケットの袖を、祈るように握っていた。

「待って、ツチミカドさん。……音が、変わったわ」

 彼女はゆっくりとピアノの前に座り、一本の指で、先ほど朔夜が叩いたのと同じ鍵盤を、愛おしむように押した。

 ――ポーン。

 澄み渡るような、純粋な音が静寂を震わせた。

 アリスの瞳に、安堵の涙がじわりと滲む。

「……ありがとう。私、もうこの音を聴くことはできないんだって、諦めかけてた」

 アリスが顔を上げ、満面の笑みを朔夜に向けた。

 その笑顔の破壊力は、昨夜の首無し騎士の鎌よりも、数段鋭く朔夜の胸を貫いた。

 「最短」で解決したはずの事件。しかし、この後の「帰り道」――隣のガレージへ戻るだけのわずか数メートルの距離が、今の朔夜には、ウェールズまでの遠乗りよりも途方もなく長い道のりに感じられた。

「……お茶、淹れるわね。一番美味しいのを。今度は、断っちゃダメよ?」

 アリスの柔らかい、だが断らせない強さを含んだ言葉に、最強の陰陽師は「……五分だけだ」と、蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。


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