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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第二章:ラスティ・メロディ ―異邦の術者と、調律の隣人―
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調律師の孤独と、届かない間合い

 隣の楽器店のドアは、開けるのを躊躇わせるほどに重く、湿っていた。

 建付けの悪い扉がギィと嫌な音を立てて開くと、そこにはロンドンの外気よりも数段冷え切った、静止した時間が横たわっていた。

「……ごめんなさい。あいにく、今は店を閉めているの」

 奥から響いた声は、低く、穏やかで、使い古された名器の弦が震えるような、どこか心に沁みる響きを孕んでいた。


 埃が踊る光の帯を割って現れたのは、一人の女性だった。

 ブロンドの髪を緩くまとめ、作業用のエプロンを締めている。その手には、弦の張りを調整するための、華奢な調律工具が握られていた。

 朔夜は、彼女の姿を網膜に捉えた瞬間、無意識に足を止めた。

 年齢は自分と同等か、少し上か。柔らかな物腰だが、その瞳の奥には、慢性的な不眠から来るであろう鋭い疲労が張り付いている。

「店に用はない。……ただ、あまりに音がうるさかったのでな」

 朔夜は努めて無機質に、事務的な口調で告げた。

 対する女性――アリスは、怪訝そうに眉を寄せた。オイルの匂いが染みついた黒のライダースに、東洋人の顔立ち。彼女の目には、朔夜がクラシック音楽の愛好家には到底見えなかっただろう。

「うるさい……? ああ、お隣のガレージの方ね。……昨夜、とても力強い音を立てて出ていかれた」

「土御門だ。……君の店の不協和音のせいで、俺のバイクのアイドリングが狂っている。物理的な音量ではなく、波長の問題だ」

 アリスは一瞬、呆気に取られたように、ふっくらとした唇をわずかに開いた。

「波長……。不思議なことをおっしゃるのね。でも、あなたにはあの音が『聴こえて』いるの?」

「聴こえるというか、える。あまり質のいいものではないな。何かに取り憑かれているぞ、この店は」

 朔夜が指摘すると、アリスは力なく、しかしどこか包容力を感じさせる仕草で微笑み、道具を作業台に置いた。

 その指先がわずかに震えているのを、朔夜の目は逃さなかった。


「驚いたわ。ロンドン広しといえど、私の調律が『呪われている』なんて仰ったのは、あなたが初めて。私はアリス。……ねえ、ツチミカドさん。それが視えるのなら、私の耳に聴こえ続けているこの悲しいノイズを、どうにかしてくださる?」

 アリスが、すり足で数歩、朔夜との距離を詰めてくる。

 ふわりと、埃っぽい木材の匂いに混じって、わずかに紅茶の香りがした。

 その瞬間、朔夜の脳内にある高性能な戦闘演算回路が、一気にショートした。

 死神の鎌をかわすのは容易だ。だが、正面から真っ直ぐな瞳で見つめられ、柔らかな物言いで頼られるという事態は、彼の世界観には存在しないイレギュラーだった。

 彼女の指先が、ジャケットの袖口に触れそうなほどに近い。

「ど、どうにかと言われても、俺はただ……。バイクが直ればそれでいい。局に報告して、正式な手順を……」

「今すぐお願い。報酬なら、この店にある一番高い弦でも、私が淹れる世界で一番美味しいお茶でも、何でも用意するから」

 アリスが、さらに半歩。朔夜は反射的に後ずさり、背中の棚に当たった。

「っ……、動くな! その距離は非効率だ!」

「距離……? 効率……?」

 アリスは不思議そうに、小鳥が首を傾げるような動作で、朔夜を見上げた。

 最強の陰陽師は、今や顔をわずかに上気させ、スマホの画面を凝視して視線を逸らしていた。

「……とにかく。店内に霊的な澱みが停滞している。それが君の精神と、ついでに俺の愛車の機嫌を損ねているんだ」

「ついで、なのね」

「当たり前だ」

 冷たく言い放つことで、朔夜はかろうじて自分の平静を保った。

 アリスは彼のぶっきらぼうな態度を怖がる風もなく、むしろどこか楽しそうに彼を見つめている。

「わかったわ。じゃあ、まずはその『澱み』を掃除してくださる? その代わり……私はあなたのバイクのために、心を込めた贈り物を用意するわ」

 朔夜は乱暴に髪をかき上げ、逃げるように店の奥へと歩き出した。

 背後でアリスが「やっぱり変な人」と、春の陽だまりのような声で小さく笑った。

 その声の波長だけは、なぜか店内のどんな音よりも鮮明に、朔夜の胸の奥を不規則に乱し続けていた。


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