調律師の孤独と、届かない間合い
隣の楽器店のドアは、開けるのを躊躇わせるほどに重く、湿っていた。
建付けの悪い扉がギィと嫌な音を立てて開くと、そこにはロンドンの外気よりも数段冷え切った、静止した時間が横たわっていた。
「……ごめんなさい。あいにく、今は店を閉めているの」
奥から響いた声は、低く、穏やかで、使い古された名器の弦が震えるような、どこか心に沁みる響きを孕んでいた。
埃が踊る光の帯を割って現れたのは、一人の女性だった。
ブロンドの髪を緩くまとめ、作業用のエプロンを締めている。その手には、弦の張りを調整するための、華奢な調律工具が握られていた。
朔夜は、彼女の姿を網膜に捉えた瞬間、無意識に足を止めた。
年齢は自分と同等か、少し上か。柔らかな物腰だが、その瞳の奥には、慢性的な不眠から来るであろう鋭い疲労が張り付いている。
「店に用はない。……ただ、あまりに音がうるさかったのでな」
朔夜は努めて無機質に、事務的な口調で告げた。
対する女性――アリスは、怪訝そうに眉を寄せた。オイルの匂いが染みついた黒のライダースに、東洋人の顔立ち。彼女の目には、朔夜がクラシック音楽の愛好家には到底見えなかっただろう。
「うるさい……? ああ、お隣のガレージの方ね。……昨夜、とても力強い音を立てて出ていかれた」
「土御門だ。……君の店の不協和音のせいで、俺のバイクのアイドリングが狂っている。物理的な音量ではなく、波長の問題だ」
アリスは一瞬、呆気に取られたように、ふっくらとした唇をわずかに開いた。
「波長……。不思議なことをおっしゃるのね。でも、あなたにはあの音が『聴こえて』いるの?」
「聴こえるというか、視える。あまり質のいいものではないな。何かに取り憑かれているぞ、この店は」
朔夜が指摘すると、アリスは力なく、しかしどこか包容力を感じさせる仕草で微笑み、道具を作業台に置いた。
その指先がわずかに震えているのを、朔夜の目は逃さなかった。
「驚いたわ。ロンドン広しといえど、私の調律が『呪われている』なんて仰ったのは、あなたが初めて。私はアリス。……ねえ、ツチミカドさん。それが視えるのなら、私の耳に聴こえ続けているこの悲しいノイズを、どうにかしてくださる?」
アリスが、すり足で数歩、朔夜との距離を詰めてくる。
ふわりと、埃っぽい木材の匂いに混じって、わずかに紅茶の香りがした。
その瞬間、朔夜の脳内にある高性能な戦闘演算回路が、一気にショートした。
死神の鎌をかわすのは容易だ。だが、正面から真っ直ぐな瞳で見つめられ、柔らかな物言いで頼られるという事態は、彼の世界観には存在しないイレギュラーだった。
彼女の指先が、ジャケットの袖口に触れそうなほどに近い。
「ど、どうにかと言われても、俺はただ……。バイクが直ればそれでいい。局に報告して、正式な手順を……」
「今すぐお願い。報酬なら、この店にある一番高い弦でも、私が淹れる世界で一番美味しいお茶でも、何でも用意するから」
アリスが、さらに半歩。朔夜は反射的に後ずさり、背中の棚に当たった。
「っ……、動くな! その距離は非効率だ!」
「距離……? 効率……?」
アリスは不思議そうに、小鳥が首を傾げるような動作で、朔夜を見上げた。
最強の陰陽師は、今や顔をわずかに上気させ、スマホの画面を凝視して視線を逸らしていた。
「……とにかく。店内に霊的な澱みが停滞している。それが君の精神と、ついでに俺の愛車の機嫌を損ねているんだ」
「ついで、なのね」
「当たり前だ」
冷たく言い放つことで、朔夜はかろうじて自分の平静を保った。
アリスは彼のぶっきらぼうな態度を怖がる風もなく、むしろどこか楽しそうに彼を見つめている。
「わかったわ。じゃあ、まずはその『澱み』を掃除してくださる? その代わり……私はあなたのバイクのために、心を込めた贈り物を用意するわ」
朔夜は乱暴に髪をかき上げ、逃げるように店の奥へと歩き出した。
背後でアリスが「やっぱり変な人」と、春の陽だまりのような声で小さく笑った。
その声の波長だけは、なぜか店内のどんな音よりも鮮明に、朔夜の胸の奥を不規則に乱し続けていた。




