狂った排気音と隣の境界線
ロンドンの朝は、鋭い冷気と共にやってくる。
土御門朔夜は、仮設の防炎シートが風に煽られてバタつく音で目を覚ました。昨夜、首無し騎士によって引き裂かれたシャッターの無残な姿を視界に入れるたび、彼の合理主義的な精神には微細なノイズが走る。
「……まずは清掃。次に資材の発注、それからリペアだ」
白湯を飲み干し、事務的に今日のタスクを脳内のカレンダーに書き込む。
昨夜の激闘と、その後の五時間に及ぶ「最長の帰路」の疲労はまだ残っていたが、彼はそれを気合でねじ伏せた。彼にとって、メンテナンスこそが日常を繋ぎ止める唯一の手段だったからだ。
だが、その平穏な予定は、壁の向こうから漏れ聞こえてくる「不協和音」によって早々に崩し去られた。
隣の区画には、一軒の中古楽器店が入っている。
普段は気にならない程度の、控えめな弦の音が聞こえる程度だった。しかし、今朝のそれは明らかに異質だった。
バイオリンの弦が悲鳴を上げるような金切り音と、重厚なピアノの低音が、まるで泥を捏ねるように混ざり合い、ガレージの壁を透過して朔夜の鼓膜を不規則に叩く。
「……何をしている。調律の失敗か?」
朔夜は眉をひそめたが、無視して愛車の整備に取り掛かろうとした。
だが、彼が愛車のイグニッションを回した瞬間、その不快感は明確な「敵意」へと変わった。
キュル、キュル……ボフッ。
完璧に同調させていたはずのリッターエンジンが、咳き込むような異音を発してストールした。
再びセルを回すが、アイドリングが安定しない。排気音が、隣から聞こえる不気味な旋律に引きずられるように、肺を病んだ老人のような不規則なリズムを刻んでいる。
「……チッ」
朔夜は無言でサイドスタンドを立て、ハンドルマウントのスマホを手に取った。
局の観測プラグインを起動し、周囲の霊子分布をスキャンする。
画面に映し出されたのは、隣の楽器店を中心に渦巻く、粘着質で黒ずんだ霊的ノイズの可視化データだった。
「……音を媒介にする寄生型の怪異か。よりによって、このタイミングで」
本来なら、これは局に報告し、正式な依頼として処理すべき案件だ。
だが、今の朔夜にはそんな悠長な手続きを踏むつもりはなかった。
隣の怪異が放つ不協和音は、あろうことか彼の「相棒」の心臓部を汚している。それは朔夜にとって、自らの魂の領域を土足で荒らされるに等しい侮辱だった。
「これは仕事じゃない。個人的な清掃だ」
朔夜はオイルの匂いが染み付いたライダースジャケットを羽織り、壁の棚から自作の符を数枚抜き取った。
プロとしての「最短解決」ではなく、私生活の平穏を取り戻すための「最速排除」。
不機嫌な陰陽師の足音が、霧の残る裏路地に冷たく響いた。




