仮面の社交
ロンドン北部に位置するノーウッド家の屋敷は、手入れの行き届いた生垣と、威圧的な鉄柵に囲まれていた。
ハヤブサが砂利を跳ね上げながら車寄せに停まると、重厚な玄関の扉から、燕尾服に身を包んだ執事と、冷ややかな眼差しを湛えた壮年の男――エレーナの父であるノーウッド卿が現れた。
「アビゲイルから聞いていたが……まさか、これほど無作法な音を立てて来るとは」
ノーウッド卿は眉をひそめ、ハヤブサの黒い車体を汚物でも見るかのように眺めた。その声は一見穏やかだが、アリスは彼の言葉が耳に届いた瞬間、わずかに顔を顰めて朔夜のジャケットの背中を掴んだ。
「……サクヤ、気をつけて。この人の声……ガラスの破片が混じっているみたい。とても冷たくて、不自然なほどに整いすぎているわ」
インカム越しのアリスの声は、警戒で硬くなっていた。
朔夜はヘルメットを脱ぎ、ノーウッド卿の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「静かなのがお望みなら、葬儀屋でも呼ぶんだな。……俺はアビゲイルに、この屋敷の『沈黙』を壊してくれと頼まれて来たんだ」
屋敷の中に足を踏み入れた途端、奇妙な圧迫感が二人を襲った。
豪華なシャンデリア、壁に並ぶ名画、毛足の長い絨毯。すべてが一級品だが、そこには生活の音がない。使用人たちは足音一つ立てず、影のように廊下を過ぎ去る。
通された客間には、依頼の主である少女、エレーナが椅子に腰掛けていた。
彼女は朔夜たちが入室しても視線を上げず、膝の上に置いた本をじっと見つめている。アリスの言った通り、彼女の周囲数メートルは、空気が凝固したような、音の存在しない「真空」と化していた。
「エレーナ、今日はお客様だ。挨拶をしなさい」
ノーウッド卿が彼女の肩に手を置く。その瞬間、アリスが小さく悲鳴を上げた。
「……っ、痛い! サクヤ、聴かないで! あの人の手が触れた瞬間、エレーナの中から真っ黒な『叫び』が溢れ出してる……!」
「黙れ。……アリス、俺の声だけに集中しろ」
朔夜は咄嗟にアリスの肩を抱き寄せ、自らの魔力で彼女の聴覚を保護する障壁を張った。
ノーウッド卿の顔に、一瞬だけ不快そうな色が浮かぶ。だが、彼はすぐに完璧な「慈父」の微笑みを取り戻した。
「ご覧の通りです。この子は一週間前から、周囲の音を拒絶するようになった。名門の跡継ぎとして、これでは教育に障る。一刻も早く、この『不具合』を取り除いていただきたい」
『不具合』。
実の娘を機械か何かのように呼ぶその言葉に、朔夜の内にあった人間不信という名の焔が、静かに燃え上がった。
「あんたの言う『教育』ってやつが、この沈黙の原因じゃないのか?」
「……何が言いたいのかね、ミスター土御門」
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。
アリスは、朔夜の腕の中で震えながらも、エレーナの瞳を見つめていた。その瞳は助けを求めているのではない。ただ、あまりに膨大な「嘘の音」に耐えかねて、自ら世界のシャッターを下ろしてしまった者の色だった。
朔夜はアリスを抱く手に力を込め、冷徹な視線をノーウッド卿に向けた。
「この屋敷の壁には、嘘が染み込みすぎてやがる。……アリス、この沈黙の底に沈んでる『本当の音』を、これから二人で引きずり出すぞ」




