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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十三章:サイレント・ノイズ ―沈黙の少女と、ガレージの居候―
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虚飾のノイズ

 ロンドンへ帰還した翌朝。ガレージには、不機嫌な金属音の代わりに、場違いなほど上品で、かつ傲慢な香水の匂いが漂っていた。

 局のエージェント、アビゲイルが、いつになく真剣な面持ちで一枚の写真をテーブルに置く。

「……個人的な依頼? 局を通さないってことは、ろくでもない案件だな」

 朔夜はハヤブサのチェーンを磨きながら、顔も上げずに吐き捨てた。

 写真に写っているのは、ドールハウスから抜け出してきたような、端正だが感情の死んだ顔をした十二歳ほどの少女だ。

「名門ノーウッド家の令嬢、エレーナよ。一週間前から、彼女は一切の音を失い、自らの声も出せなくなった。……医師は精神的なものだと言うけれど、私たちが調べたところ、彼女の周囲だけ『音の魔力』が完全に欠落した空白地帯になっているの」

「……音を、食べられちゃったみたい」

 背後から、アリスが静かに付け加えた。

 彼女はいつの間にか、朔夜の隣で使い古されたウェスを手に、ホイールを磨くのを手伝っていた。その動きは迷いなく、朔夜の作業を邪魔することもない。もはや彼にとって、視界の端にアリスの金髪が揺れているのは、エンジンの回転数を確認するのと同じくらい、無意識のルーチンに組み込まれていた。

「音を食う? 誰がだ」

「わからない。でも……彼女の家の方角から、とっても嫌な音が聞こえるの。……何重にも塗り固められた嘘が、空気を震わせることさえ拒んでいるような……重たくて、冷たい沈黙」

 アリスが顔を曇らせ、自分の耳をそっと押さえる。

 朔夜は磨く手を止め、アリスの指がわずかに震えているのを見逃さなかった。

 彼はアビゲイルから写真をひったくるように受け取ると、重い腰を上げた。


 本来なら、人間同士のドロドロした愛憎劇に首を突っ込むのは御免だ。人間なんて、隙あらば嘘をつき、自分の都合で他人の心を踏みにじる生き物だということを、朔夜は嫌というほど知っている。

 だが、その「嘘」が、アリスの耳を傷つけている。

 それだけで、この仕事を引き受ける理由は十分だった。

「アリス、例のインカムを持ってこい。……外の雑音を遮断して、俺の声だけを通すように調整したやつだ」

「……サクヤ? 私も行っていいの?」

「お前がいなきゃ、その『沈黙』の正体が分からねえだろうが」

 朔夜はぶっきらぼうに言って、ハヤブサに跨った。アリスは嬉しそうに頷くと、当然のように朔夜の背中にその身を預け、その細い腕を彼の腰に回した。


 その光景を、アビゲイルは信じられないものを見るような目で見つめていた。

 彼女が知る土御門朔夜は、徹底して人間を信じない男だった。局の同僚とも必要最低限の言葉しか交わさず、常に周囲を拒絶するような刺々しい「壁」を張り、独りで完結していたはずだ。

(……あの朔夜が、自分の背中をあんなに無防備に預けるなんてね)

 アリスに向ける言葉の端々に、微かな、だが確かな温度が混じっている。他人の嘘を誰よりも嫌う男が、この「アリス」という一人の女性にだけは、心の鍵を預け、自らの真実を許している。

「……サクヤの音だけ、信じてるから」

 アリスがそっと背中に頬を寄せ、ハヤブサが野太い咆哮を上げる。

 アビゲイルは、走り去るテールランプを眺めながら、独りごちた。

「独りの方が速い……そう言えていた頃の貴方は、もういないのね」

 嘘にまみれた貴族の屋敷へ向けて、ハヤブサの排気音が、朝の静寂を暴力的に切り裂いていった。


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