雷鳴の翼
「サクヤ、右後方! 別の音が重なったわ……旋回して、あなたを挟み込もうとしている!」
アリスの悲鳴に近い叫びがインカムのスピーカーを割り、朔夜の鼓膜を叩いた。
視界は未だ、乳白色の濃霧に閉ざされたままだ。だが、アリスの鋭敏すぎる耳は、その霧のカーテンの裏側で、亡霊たちが描く三次元の殺戮曲線を完璧に捉えていた。見えない敵機は、ハヤブサが地上の道という「線」でしか動けないことを嘲笑うかのように、空から斜めに、それも翼が重なり合うほどの異常な密集体系で切り込んできた。
「……挟み撃ちかよ。空の連中は、地上の礼儀ってものを知らねえらしいな」
朔夜はスロットルを戻すどころか、指先に力を込め、さらに一ミリの隙間もなく開け放った。
一三〇〇ccの巨体が、怒れる野獣のような咆哮を上げ、霧の壁を力技で引き裂いていく。前輪が路面のわずかなうねりを拾い、ハンドルを通じて朔夜の腕に「死」の予感を伝えてくる。だが、彼にはアリスの声がある。彼女が聴き取る「音の定位」こそが、霧に隠れたコーナーの深さと、背後に迫る亡霊との距離を、暗闇に灯るレーダーのように可視化していた。
「……ダメ、まだ止まらないわ! 彼ら、寂しいのよ。誰かに自分たちがここにいた証を……最期の音を、ちゃんと受け止めてほしいの。その執念が、エンジンの音を止めさせない!」
アリスが腰にしがみつく腕に、悲痛なほどの力がこもる。厚いレザー越しにも、彼女の全身が恐怖ではなく、亡霊たちの哀しみと共振して震えているのが伝わってきた。
亡霊たちは、ただ破壊を望んでいるのではない。自分たちがかつて命を燃やした証であるエンジンの咆哮が、誰にも届かず、冷たい海風に消えていく孤独に耐えかねているのだ。彼らにとって、この追走劇は「自分たちを見つけてくれ」という絶望的な叫びそのものだった。
朔夜は、ハヤブサのハンドルを握る手に一層の熱を込めた。
「……だったら、俺が受け止めてやる。これ以上、虚しい音を鳴らし続ける必要はねえ」
朔夜は左手の真鍮製術式ユニットを起動させ、リミッターを解除した。ハヤブサのイグニッションコイルに眠る全ての電荷が、朔夜の魔力と融合し、青白いプラズマとなって車体を包み込んでいく。それは単なる破壊の雷撃ではない。亡霊たちの不協和音を包み込み、昇華させ、そして永い眠りへと誘うための「鎮魂の雷鳴」だ。
「アリス、一番大きな音が来るタイミングを教えろ。……奴らの音を、俺が『正解』に変えてやる」
「……あと三秒。二、一……今! 全ての音が、あなたのすぐ上で一つに重なったわ! 撃って、サクヤ!!」
セブン・シスターズで最も高く、最も鋭い断崖のコーナー。朔夜はハヤブサを極限までバンクさせた。ステップのバンクセンサーが石畳を激しく削り、鮮やかな火花が霧の中に飛び散る。
その瞬間、朔夜は腹の底から声を絞り出し、ハヤブサの排気音に土御門流の「鎮魂の言霊」を乗せて放った。
「――聴こえてるぞ。貴様らの走りは、俺が記憶した。……だからもう、休め」
ドォォォォォォォォォォン!!
ハヤブサが放った咆哮と完全に同期し、紫電を纏った巨大な雷鳴の術が、地を這う龍のように空へ向かって突き抜けた。
それは亡霊たちの悲鳴をかき消すのではなく、重厚で完璧な和音として彼らの音を呑み込みながら、執念の核である見えない機体群を、内側から優しく、かつ圧倒的な威力で焼き切った。
空を裂く落雷のような爆鳴が、白亜の断崖全体を震わせる。
ハヤブサが放った「雷鳴の翼」は、物理的な霧さえも衝撃波で一気に爆散させた。つい数秒前まで空を覆っていた狂おしいノイズは、温かな余韻へと変わり、満足したかのように白亜の断崖の向こう側へと溶けていった。
霧が晴れた視界の先には、どこまでも続く真っ青な海と、沈みかけた夕陽が作り出す黄金の道だけが広がっていた。




