見えないドッグファイト
一瞬にして、世界は真っ白な帳に包まれた。
水平線から駆け上がってきた霧は、真昼の太陽を完全に遮り、視界を数メートル先まで奪い去る。それは単なる水蒸気ではなく、海に消えた数多の想念が混じり合った、湿り気のある重い「膜」のようだった。
朔夜は反射的にヘッドライトをハイビームに切り替えたが、白い壁に光が乱反射し、かえって方向感覚が狂いそうになる。
「……ッ、サクヤ! 真上よ! 来るわ!」
アリスの叫びがインカムで割れると同時に、キィィィィィィィィン! という、鼓膜を直接ナイフで削るような高周波の金属音が空から降り注いだ。
それは現世の航空機のエンジン音ではない。過給機が悲鳴を上げ、ボロボロになった機体が空中分解寸前で耐えながら急降下してくる――過去の亡霊が駆る、目に見えない「戦闘機」の突撃音だ。
「ちっ……死んでまで、追いかけっこを楽しみたいのかよ!」
朔夜はハヤブサを強引にバンクさせ、真っ白な霧の中、勘だけを頼りにワインディングのコーナーを駆け抜けた。
ドォォォン! という、凄まじい衝撃波が背後で爆発する。
本来ならそこに何もないはずの空気が激しくうねり、ハヤブサの重厚な車体が一瞬、横風に煽られたように浮き上がった。見えない機体が、ハヤブサのテールランプのすぐ後ろを通り抜けたのだ。
「……サクヤ、一人じゃない! 三機……ううん、もっと増えてる! 彼ら、あなたを自分たちの『編隊長』だと思い込んで、後ろに張り付いているわ!」
「冗談じゃねえ、俺に空を飛べってのか!」
アリスがしがみつく腕の震えが、朔夜に伝わってくる。彼女の耳には、霧の中に潜む無数のエンジンの不協和音と、若きパイロットたちの「まだ終わっていない」という焦燥の声が、嵐のように渦巻いているのだろう。
断崖沿いの道は、片側が深い崖、もう片側が切り立った丘だ。逃げ場はない。
霧の向こうから、今度は銃爪を引くような硬質なクリック音が響き始める。実弾ではない。だが、放たれるのは殺意を帯びた「思念の弾丸」だ。
「アリス、しっかり掴まってろ。脳みそが揺れるぞ!」
朔夜は左手の真鍮製術式ユニットを起動させた。ハヤブサのイグニッションコイルから発生する高電圧を、電磁的な障壁へと変換する。
同時に、ハヤブサの排気音が一段と鋭く、乾いた音へと変化した。
「……こっちは二輪、あっちはプロペラだ。物理法則が違うってことを、その腐った耳に叩き込んでやる」
視界ゼロの死線。
断崖絶壁を縫うように走る一本の道で、朔夜とアリスは、姿なき大編隊との「地上でのドッグファイト」に引きずり込まれていった。




