南へ
ガレージの重いシャッターを押し上げると、ロンドンの湿った朝の空気が流れ込んできた。
朔夜は無言でハヤブサを外に出し、パニアケースのロックを確認する。昨夜のうちにルートは頭に叩き込んであった。ロンドンを抜け、A23号線をひたすら南下し、ドーバー海峡に面した白亜の断崖を目指す。
いつの間にか、このガレージに彼女がいる風景が当たり前になっていた。
本来、ここは朔夜が一人で己の腕を磨き、誰にも邪魔されずに愛車と向き合うための聖域だったはずだ。だが今では、作業の合間にふと顔を上げたとき、そこにアリスがいて、静かに紅茶を淹れている気配がなければ、エンジンの爆発音さえどこか頼りなく、不完全なものに感じられる。
「……サクヤ、本当にいいの? 局からの連絡、昨日からずっと鳴りっぱなしみたいだけど」
後ろから、ライディングジャケットに身を包んだアリスが、少し心配そうに覗き込んできた。彼女の耳には、ガレージの奥に放り出された端末が、執拗に「電子の不協和音」を撒き散らしているのが聞こえているのだろう。
「放っておけ。……あいつらは、俺たちの『時間』まで買ったつもりでいやがる。今日は臨時休業だ」
朔夜はぶっきらぼうに言い放ち、予備のヘルメットをアリスに差し出した。
運河での一件以来、アリスの顔にはどこか影が差していた。街の喧騒や、局の役人が持ち込む身勝手な論理――それらすべてが、鋭すぎる彼女の耳を摩耗させている。
彼女の耳が傷つくことは、朔夜にとって、自分のハヤブサに泥を投げ込まれるよりも耐え難いことだった。
「さっさと乗れ。潮風に当たれば、少しはその耳のノイズもマシになるだろう」
「……ふふ、そうね。ありがとう、サクヤ」
アリスが当然のようにタンデムシートに跨り、朔夜の腰に細い腕を回す。
その感触が伝わった瞬間、朔夜の内にあった尖った苛立ちが、不思議と凪いでいくのを感じた。アリスがいて初めて、自分という「職人」の音もまた、正しく調律されるのだ。
スターターボタンを押すと、一三〇〇ccの直列四気筒エンジンが目覚め、ガレージの壁を震わせる重厚な咆哮を上げた。
ハヤブサは、目覚めたばかりのロンドンの街を滑り出した。
渋滞の始まりかけた市街地を抜け、高速道路に乗った瞬間、朔夜はスロットルを大きく開けた。
グオォォォォンッ!
背中を蹴り飛ばされるような加速。だが、車体は恐ろしいほどに安定している。二人分の体重と荷物を載せてなお、ハヤブサのトルクには無限の余裕があった。
流れる景色が線になり、ヘルメット越しに聞こえる風切り音が、一定の心地よいリズムへと変わっていく。
「……サクヤ、すごい……! 街の音が、どんどん後ろに溶けていくわ」
アリスの声が、インカムを通じて弾んだように響いた。
その声が、風の音よりも、エンジンの鼓動よりも、今の朔夜には心地よかった。
大型バイクという翼を得た二人の休暇は、今始まったばかりだった。




