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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十一章:カナル・サイレンス ―浮かぶ墓標と、水の不協和音―
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職人の領域(テリトリー)

 静寂が戻った運河に、ハヤブサの低いアイドリング音だけが規則正しく響いていた。

 水面に浮かんでいた鉄屑や泥の塊は、跡形もなく沈み、ただ黒い水面が街灯を跳ね返している。

「……終わったわね、サクヤ」

 アリスがゆっくりと顔を上げ、耳から手を離した。まだ顔色は少し悪いが、その瞳には日常の穏やかな光が戻っている。

「ああ。耳、大丈夫か」

「ええ……。あなたの背中が、一番静かで安心できる場所だったから」

 アリスが小さく微笑んだその時、背後から泥まみれの革靴が、ベチャリと石畳を叩いた。ヘンリーだ。彼は高級なスーツを台無しにし、震える手でタブレットを操作しようとしていた。

「……今の現象、そして君の機動……。物理的な説明がつかない。土御門、その車両のログ、および君の脳波データを即座に提出したまえ。局に戻って精査する必要がある。これはもはや個人の技術ではなく、組織として管理すべきリソースだ」

 ヘンリーの声には、恐怖を隠そうとする官僚特有の傲慢さが混じっていた。彼はハヤブサに歩み寄り、車体に直接触れようと手を伸ばす。

 その瞬間。

 朔夜がわずかにスロットルを捻ると、ハヤブサが野獣のような咆哮を上げた。

「――っ!?」

 ヘンリーが弾かれたように飛びのく。

「……あんたのタブレットに映ってる数字が、俺たちのすべてだ。それ以上は、一歩も踏み込むな」

 朔夜はヘルメットのシールド越しに、冷徹な視線をヘンリーに突き刺した。

「報酬はアビゲイル経由で受け取る。これ以上の報告も、データの提供もしない。仕事(退魔)は完璧に終わらせたはずだ。文句があるなら、現場も知らない『上』にそう報告しとけ」

「君……! 自分が誰に口をきいているか分かっているのか! 局は君の私生活のすべてを把握することも――」

「やってみろ。……その代わり、二度と俺のガレージのシャッターは開けさせない」

 朔夜は言い捨てると、ハヤブサを軽やかに旋回させた。

 ヘンリーの喚き声を排気音でかき消し、銀色の巨体は迷いなく運河を離れ、ベーカー街への帰路につく。


 ガレージに戻り、シャッターを下ろすと、そこにはいつもの油の匂いと静寂があった。

 朔夜はヘルメットを脱ぎ、愛車のシートを丁寧に拭き始める。アリスは何も言わず、二人のためにゆっくりと紅茶を淹れた。

 外の世界がどれほど騒がしくても、この扉一枚向こう側は、誰にも侵されない彼らだけの聖域だ。

 朔夜は、温かいカップを受け取ると、ふと口角を上げた。

「……アリス。明日の朝、またバイクの音を聴いてくれるか。あいつの泥を吸い込んだかもしれねえ」

「ええ、喜んで。あなたのハヤブサを、世界で一番綺麗な音に戻してあげるわ」

 ロンドンの夜は、再び二人だけの正しいリズムを刻み始めた。

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