トーパス・バランス
「避けるな、土御門! 支給品の装備を使えと言っている!」
背後でヘンリーが怒鳴るが、朔夜は鼻で笑った。役人が寄越した高周波焼却弾など、表面を焼くだけの気休めに過ぎない。水底の深い闇が呼んでいるこの「音」を止めるには、物理的な破壊だけでは足りないのだ。
水面から踊り出た、ヘドロと鉄屑の触手がヘンリーの首筋に迫る。朔夜は一瞬の迷いもなく、ハヤブサのスロットルを煽った。
キュッ、と石畳を噛むタイヤの悲鳴。
道幅はわずか二メートル。一三〇〇ccの巨体を翻すにはあまりに絶望的な空間だが、朔夜はリアブレーキを引きずりながら車体を極限まで寝かせ、フロントタイヤを振り出した。
「アリス、掴まってろ!」
低速でのフルバンク。ハヤブサのカウルがレンガ壁をかすめ、火花を散らす。
強引な旋回でヘンリーの前に割って入った朔夜は、右手を放し、剥き出しになった触手へ直接「雷法」を叩き込んだ。
パヂィィィィッ! と、青白い閃光が運河を照らす。
雷撃を受けた触手は一瞬で硬直したが、すぐに水底から新たな影が次々と這い上がり、遊歩道を埋め尽くした。
「……これ、ただのゴミじゃないわ。サクヤ、ボートの『隙間』に溜まった悪意が、ハヤブサの点火のリズムを狂わせようとしてる!」
アリスの声通り、ハヤブサのエンジンが「失火」を起こしたようにガクガクと震え始める。
怪異が放つ不協和音――「動くものは止まれ、生きるものは沈め」という呪詛が、機械の心臓にまで干渉し始めていたのだ。
「……土御門! 何をしている、エンジンを止めるな! 出力が低下しているぞ、計算外だ!」
ヘンリーはうろたえ、手元のタブレットを叩く。彼はこの事態を「エンジンの故障」というデータでしか見ていない。
「……計算、計算とうるせえんだよ。バイクの調子を決めるのは、お前の数字じゃねえ。……アリス!」
「わかってる! 聴こえたわ、不協和音の『節』が!」
アリスは朔夜の背中に密着し、その胸元にある真鍮の術式ユニットへ手を添えた。
彼女の指先が、機械の振動を通じて、怪異の呪いを打ち消す「正しいリズム」を朔夜に伝える。
「サクヤ、三拍子……今の音の裏を突いて! そこが、この泥の呪いの空白よ!」
「了解だ……!」
朔夜はあえてスロットルを大きく戻し、エンスト寸前の回転域まで落とした。
ハヤブサが沈み込むような、一瞬の静寂。
その直後、アリスの合図とともに、朔夜は真鍮の歯車を全開に回した。
ハヤブサの排気音が、重厚な低音から、雷鳴のような咆哮へと跳ね上がる。
「……教わった通りだ。一本橋の上だろうが、ここは俺の領域だ!」
バランスを崩せば即・水没という細道の上で、朔夜は後輪を空転させ、青白い稲妻を纏ったまま爆発的に加速した。怪異の腕を粉砕しながら、銀色の巨体が闇の奥へと突き進む。




