効率的な無礼
ベーカー街の裏路地。重厚な鉄扉の奥にあるガレージに、似つかわしくない革靴の音が響いた。
カチッ、カチッ、と。
それは手入れの行き届いた、だが路面の感触を一切楽しまない、無機質で事務的な歩調だった。
ハヤブサのサイドスタンドを立て、チェーンの汚れを拭き取っていた朔夜は、顔を上げることなくその音の主を察した。
「アビゲイルじゃないな。……誰だ」
「王立怪異対策局、監察官のヘンリー・ウェストウッドだ。土御門朔夜、君の『活動実績』の再評価に来た」
現れたのは、仕立ての良いネイビーのスーツを隙なく着こなした男だった。彼はガレージの油の匂いに不快そうに眉をひそめると、中央に鎮座する銀色のハヤブサを、値踏みするように一瞥した。
「……アビゲイルが君を高く評価している理由は理解しかねるな。実績は場当たり的な退魔が数件。この程度の案件一件に対し、並の公務員の年収を優に超える報酬を支払うのは、組織として非常に非効率だ」
ヘンリーが振るったファイルには、王立機関から振り込まれた莫大なポンドの記録が並んでいた。
人智を超えた怪異との接触は、文字通り命を削る作業だ。一歩間違えば魂ごと食い破られるリスクの対価として、局は「たった一度の成功で、その後数年は一切の労働を必要としない」ほどの破格の報酬を保証している。
だが、この役人は知らない。その報酬の大半が、この銀色の巨体を維持するための「供物」に消えることを。ハヤブサに組み込まれた特注の真鍮パーツ、高純度の霊的触媒、そして過酷な術式行使に耐えうる最高級の油脂類――。
それでもなお、手元に残る余剰分を朔夜は堅実に積み立てている。それはいつか訪れるかもしれない「静かな隠居生活」のためか、あるいはアリスたちとの未来への備えか。彼にとっての貯金とは、リスクを背負う者としての冷静な防衛策でもあった。
ちょうど奥から、二人の気配を察したアリスが顔を出したところだった。彼女はヘンリーを一目見て、眉をひそめて朔夜に囁いた。
「……サクヤ、気をつけて。この方の音……壊れたメトロノームみたいに、うわべだけの数字を刻んでいるけれど、中身が空っぽでひどく空鳴りしているわ」
アリスの評価を無視し、ヘンリーはファイルを広げた。
「本題に入ろう。リトル・ヴェニスからリージェンツ運河にかけたエリアで、失踪事件が頻発している。警察の手には負えん。局の特殊車両はあの狭い遊歩道には入れない。そこで、君のその……『鉄屑』を、機動ユニットとして採用することにした」
「鉄屑、だと?」
朔夜の手が止まる。
一三〇〇ccのエンジンが奏でる咆哮も、真鍮の回路が導く精緻な術式も、この男にとってはただの「経費」の対象でしかないのだ。
「そうだ。本来ならもっと小型の電動バイクで十分な任務だが、アビゲイルが君を推すのでな。……ただし、今回は私が同行し、君の作業効率を厳密に監視させてもらう。準備ができ次第、出発したまえ」
ヘンリーは土足でガレージの奥、朔夜の居住スペースにまで踏み込もうとした。その瞬間、アリスがすっとその前に立ちふさがった。
「失礼ですが、ウェストウッド様。ここから先は、サクヤと私にとって、外の『不協和音』から耳を守るための大切な場所なんです。公用の方は、どうぞ表でお待ちください」
その声は穏やかだったが、絶対に譲らないという鉄のような意志がこもっていた。ヘンリーは鼻を鳴らし、「これだからフリーランスは……」と毒づきながら扉の外へ去っていった。
静かになったガレージで、朔夜は深く溜息をつく。
「……悪いな、アリス。あんな奴の依頼、受けるつもりはなかったんだが。……だが、提示された額は、こいつのエンジンを一度完全にバラして組み直した上で、予備の触媒を買い溜めしても釣りが来る。受ける価値はある」
「いいのよ、サクヤ。あの人の言うことは、何もかも的外れだわ。あなたのハヤブサは、誰よりも優しく、正しい音で鳴っているもの」
アリスは微笑み、ハヤブサのカウルをそっと撫でた。
「……見せてあげましょう。あの『空っぽ』な人には到底真似できない、あなたの、本物の価値を」
朔夜は無言でヘルメットを被り、グローブのベルクロを締め直した。機械を数字でしか見ない役人に、言葉で説明するつもりはない。ただ、圧倒的な走りの事実で黙らせればいい。
親指がスターターを押すと、銀色の巨体が重厚な、だが寸分の狂いもない心拍音を刻み始めた。
「……行くぞ、アリス。奴が追いつけない場所へな」
サイドスタンドを跳ね上げ、朔夜は夜のロンドンへとハヤブサを滑り出させた。その背中は、莫大な報酬と、それを管理する冷静なプロの矜持を背負っていた。




