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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十章:リッパー・ノイズ ―亡霊の銀刃と、午前二時の残響―
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ハニー・ゴールドの夜明け

 テムズ川を渡る風が、火照ったエンジンの熱をゆっくりと奪っていく。

 タワー・ブリッジを抜け、朝靄に包まれた市街地を微速で流しながら、朔夜は背中の重みを心地よく感じていた。先ほどまで死線を共に潜り抜けていた、三歳年上の相棒。その柔らかな体温が、厚いライディングジャケット越しに、安堵の証として伝わってくる。

「……アリス、起きたか?」

 信号待ちの停車中、朔夜が低く声をかける。

 肩に預けられていた重みがふわりと浮き、アリスが小さく身じろぎした。

「……ん……。あ、ごめんなさい、私……寝ちゃってた?」

 二十三歳の、凛とした調律師の声ではない。寝起きの、どこか幼さを残した掠れ声。

 アリスは慌てて身体を離そうとしたが、まだ力の入らない指先が朔夜の腰を掴み損ね、よろりとバランスを崩した。

「危ねえ。……無理して離れるな。ベーカー街まであと少しだ」

 咄嗟に、朔夜の左手がアリスの腕を支える。グローブ越しでも伝わる、迷いのない強さ。アリスは再び、彼の背中にそっと身を預けた。

 シールドを跳ね上げた視線の先には、死の沈黙を脱ぎ捨て、黄金色の朝日に照らされたロンドンの街並みがあった。清掃車が走る音、遠くで聞こえる駅の喧騒、そして木々を揺らす風の囁き。彼女が愛し、守り抜こうとした「世界の音」が、そこには満ちていた。

 ハヤブサが再びゆっくりと走り出す。

 アリスは、流れる景色を見つめながら、自分の胸の奥で鳴り止まない「別の音」に気づいていた。

(……おかしいわね)

 心理学でいう「吊り橋効果」――そんな冷めた言葉が脳裏をよぎる。極限の恐怖と高揚が混じり合い、恋心と錯覚する現象。二十三歳の自分なら、それを理性で分析できるはずだった。

 けれど。

 視界を奪われた闇の中で、彼女の言葉だけを頼りにスロットルを開ききった、この男の狂気じみた信頼。

 「お前を消させやしねえ」と、ぶっきらぼうに言い放ったあの温度。

 

 それが、どんな名門オーケストラの交響曲よりも、完璧な旋律として彼女の心臓を揺さぶり続けていた。錯覚だとしても構わない。この震えが止まらないのは、もう恐怖のせいではないのだ。

(サクヤ……)

 アリスは、自分の腕に力を込め、彼の腰をより深く抱きしめた。

 声には出さない。今、この静かな夜明けの空気に、その言葉を混ぜてしまうのが惜しくて。

 けれど、彼女の胸の内側では、自分でも驚くほど素直な言葉が、何度も何度も反響していた。

(サクヤ……好き。……好きよ)

 三歳年下の、まだどこか少年の青さを残した退魔師。

 けれど、この夜明けの光の中で、彼女は確信していた。

 自分がこれから一生をかけて調律し、寄り添い、共に奏でていきたい「音」が、この背中にあることを。

「……サクヤ」

「なんだ」

「……このバイク、やっぱり、あなたに似てるわ。荒々しくて、怖いくらい速いけれど……。本当は、誰よりも優しく、正しい場所へ導いてくれるこえをしてる」

 ヘルメット越しで表情は見えないが、朔夜が少しだけ困ったように首筋を掻くのがわかった。

「……買い被りすぎだ。俺はただ、行きたい場所へ走ってるだけだよ」

「いいえ。……私を連れて行ってくれたのよ。あの蜂蜜色の、光の向こうへ」

 アリスは微笑み、再び彼に顔を寄せた。

 自分がこれから聴くすべての音の中に、きっと彼の鼓動が混じるだろう。そう思うだけで、世界は今まで以上に鮮やかに聴こえた。

「サクヤ。……ガレージに着いたら、温かい紅茶を淹れてくれる?」

「……ああ。味の保証はしねえけどな」

「ふふ、いいわよ。……あなたの淹れる音を、聴きながら飲むわ」

 朝焼けのロンドン。

 銀色のハヤブサは、二人の確かな体温と、まだ言葉にならない熱い想いを乗せて、黄金色の光の中へと溶け込んでいった。


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