夜明けの調律 ―リッパー・フィナーレ―
午前三時四十分。テムズ川の河畔は、もはやこの世の風景ではなかった。
ロンドン塔を中心に渦巻く黒い霧は、重力を無視して空へと立ち昇り、夜空の星々さえも「沈黙」という名の膜で塗り潰している。川面は鏡のように静まり返り、流れる水の音すら聞こえない。
ハヤブサのタイヤがタワー・ブリッジの跳開部を叩く。その振動さえ、霧に触れた瞬間に霧散した。
「……ひどい。街が、死の淵で喘いでいるわ」
アリスが朔夜の背中で、その痛みに耐えるように呟いた。彼女の耳には、ロンドンの地脈が断絶される瞬間の、悲鳴にも似た「軋み」が届いているのだ。
前方、霧の深淵から、ついに「それ」が姿を現した。
五芒星の犠牲を喰らい、巨大な異形へと変貌した切り裂きジャック。かつてのインバネスコートは千切れ、影そのものが巨大な外科用メスの群れとなって、ロンドン塔を包囲している。
「アリス、しっかり捕まってろ。……最後の調律を始めるぞ」
朔夜はハヤブサの点火系統を、全霊力を込めた「完全解放モード」へと切り替えた。
カウルの内側で、真鍮の回路が白熱し、融解寸前の光を放つ。
「ハヤブサの鼓動に、アンタの旋律を乗せろ。……あいつが踏み潰した、すべての人たちの『音』を取り戻すんだ!」
アリスは覚悟を決め、朔夜の首元に深く顔を埋めた。
彼女は瞳を閉じ、かつて自分が調律してきた無数の楽器の音色を、そして何よりも、今自分を生かしている朔夜の心音を思い浮かべた。
「……聴こえるわ。サクヤ、あなたの音の中に……みんなの、明日へ続くリズムが……!」
アリスが朔夜の耳元で、静かに、だが凛とした声で歌い始めた。
それは言葉を越えた、魂の調律。
その旋律がハヤブサのエンジン回転数と同調した瞬間、奇跡が起きた。
ドォォォォォォォォン!!
ハヤブサのマフラーから放たれたのは、排気音ではなかった。
それは、幾千もの聖なる鐘が一斉に鳴り響くような、重厚で透明な「光の音」だった。
銀色の猛禽が、テムズの闇を切り裂いて飛ぶ。
殺人鬼が放つ無数のメスが、ハヤブサの進路を遮るように降り注ぐ。だが、アリスの歌声と同期したハヤブサの周囲には、物理的な法則を拒絶する「音の防壁」が展開されていた。
銀刃が音の膜に触れた瞬間、パリンと乾いた音を立てて砕け散る。
朔夜は三速のまま、一万三千回転。ハヤブサはもはやバイクの形をした「巨大な音叉」となって、霧の心臓部へと突っ込んだ。
「これで……終わりだッ!!」
朔夜がスロットルを限界まで引き抜き、同時にアリスが最高音の旋律を解き放つ。
ハヤブサのフロントタイヤが殺人鬼の影を貫いた瞬間、積もり積もった「沈黙」が、内側から爆発するように崩壊した。
――解放されたのは、一八八八年から閉じ込められていた、無数の生活の音だった。
子供たちの笑い声、石畳を叩く馬車の音、夜霧に消えた女性たちの穏やかな語らい。
奪われていたすべての音が、光の粒子となってロンドンの空へと還っていく。
断末魔の叫びさえ許されず、殺人鬼の概念は「音」の濁流に呑み込まれ、跡形もなく消滅した。
午前五時。
東の空が、ゆっくりと群青色から蜂蜜色へと溶け始めていた。
タワー・ブリッジの袂。
朔夜はハヤブサを止め、ヘルメットを脱いだ。冷たい朝の空気が、熱を持った頬に心地よい。
背中では、アリスが彼の肩に顔を預けたまま、静かな寝息を立てていた。
極限の集中と恐怖、そして魂を削るような歌。二十三歳の彼女が背負うには、あまりに重すぎる夜だったはずだ。
朔夜は彼女を起こさないよう、慎重にバイクを支えた。
朝焼けに照らされたロンドンは、いつもの、騒がしくも愛おしい「音」を取り戻していた。
遠くで聞こえる、街の目覚めの音。
「……お疲れさん、アリス。次の音は、もっとマシな場所で聴かせてやるよ」
朔夜は小さく独り言をこぼすと、彼女を乗せたまま、ゆっくりとハヤブサを発進させた。
朝日の中、銀色のカウルが美しく輝き、新しい一日のリズムを刻み始めた。




