ヴィクトリアの遺言
深夜のベーカー街。ようやく辿り着いたガレージのシャッターを下ろすと、ロンドンの喧騒から隔絶された静寂が、重く二人を包み込んだ。
ハヤブサをサイドスタンドに預けた瞬間、朔夜の腕を激しい脱力感が襲った。霊力を直結させた反動で、両手の指先が細かく震えている。
アリスはタンデムシートに座ったまま、深く頭を垂れていた。二十三歳のプロの調律師として、普段は朔夜よりも大人びた余裕を見せる彼女だが、今この瞬間は、その細い肩が酷く脆く見えた。
「……降りられるか、アリス」
朔夜が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。だが、その瞳にはまだ恐怖の残滓がこびりついている。彼女は震える足で地面に降りようとしたが、膝が笑い、崩れ落ちそうになった。
「……あ……っ」
咄嗟に朔夜がその身体を受け止める。二十歳の彼とほぼ同じ高さにある彼女の視線が、今は力なく彷徨い、彼の胸元へと沈んだ。いつもは凛として自分と向き合っているその瞳が、今はただ、目の前の男の体温に縋っていた。
「ごめんなさい、サクヤ……。情けないわね、私、年上のくせに。……足が、動かないの」
アリスの声は掠れ、朔夜のジャケットを掴む指先が白くなるほど強張っている。ガレージの作業灯が、彼女の耳元にこびりついた乾いた血痕を照らし出した。それを見た朔夜の奥歯が、ギリリと音を立てた。
「……無理すんな。あんなもん見せられて、平気な奴はいねえよ」
朔夜は彼女を抱きかかえるようにして、ガレージの片隅にあるパイプ椅子に座らせた。救急箱を取り出し、消毒液を脱脂綿に浸す。年上の彼女を気遣うその手付きは、どうしてもぎこちなくなる。
「少し染みるぞ」
「……ええ。……ねえ、サクヤ。あそこ、音がなかったんじゃないわ。……無理やり、奪われていたの。悲鳴も、風の音も、何もかもが、あの重い霧の底に押し込められて……窒息しそうだった」
消毒の刺激に肩を竦めながら、アリスは震える声で続けた。
「あいつが動くたびに、聴こえたのよ。何かがパチン、と弾けるみたいな音が。……あれは、かつてあそこで亡くなった人たちの『最後の声』を、あいつが一つずつ踏み潰して回っている音だわ。……私、そんなの嫌よ。あの子たちの声を、あんな風に消させたくない……っ」
アリスの訴えを聴きながら、朔夜は作業台に広げたロンドンの地図に目を落とした。ホワイトチャペル周辺の五つの現場。それを繋げば、嫌でも一つの形が見えてくる。
「……土地が『記憶』を閉じ込めてるのか。被害者の怨念を吸い上げて、永遠に惨劇を再演し続ける装置……。アリスが聴いたのは、その装置が軋む音だったんだろうな」
「装置……?」
「ああ。あいつは、そのシステムが形を成した番人みたいなもんだ。物理的な実体がないから、ハヤブサで弾いても霧散するだけで終わる。……結界の核を叩かねえ限り、ロンドンの『音』はあいつに全部喰われるぞ」
朔夜はハヤブサの前に立ち、カウルに刻まれた深い傷跡に手を触れた。
「……アリス、アンタの力が必要だ。怖いかもしれないが、もう一度、俺の背中に乗ってくれ」
「……私の力が?」
「ああ。奴の『無音』をぶち抜くには、ハヤブサをただ回すだけじゃ足りねえ。……アンタの聴覚を、俺のエンジンの鼓動に同期させる。アンタの耳で、ハヤブサの旋律を整えてくれ。……俺一人じゃ、ノイズを消しきれねえんだ」
アリスは立ち上がり、まだ震える足で朔夜の隣に歩み寄った。彼女は自分の弱さを抱えたまま、それでも朔夜が自分を必要としているという事実に、背筋を伸ばした。ちょうど同じ高さの視線が交差した瞬間、そこには三歳差を超えた、一つの目的に向かう相棒としての火花が散った。
「……わかったわ。私のすべてを、あなたの音に預ける。……最高に美しい『咆哮』を奏でましょう、サクヤ」
朔夜は頷き、サイドカウルを剥き出しにして、ハヤブサに真鍮の回路を組み込み始めた。深夜のガレージに響く精密な金属音。それは、弱さを強さに変えるための、静かなる「調律」の時間だった。
午前2時。
朔夜はヘルメットを被り、ハヤブサに跨がった。アリスもまた、タンデムシートに腰を下ろす。彼女の腕が朔夜の腰に回されたとき、そこには先程までの震えはなく、ただ確かな信頼の重みだけがあった。
「行くぞ。……夜明けまでには、全部終わらせる」
シャッターが上がる。外には、ホワイトチャペルから溢れ出した死の霧が、ロンドンの街を飲み込もうと這い寄ってきていた。
銀色の猛禽が、今、最後にして最大の咆哮に向けて、闇へと飛び出した。




