デッド・サイレンス ―血の轍―
ホワイトチャペルの路地裏。そこはもはや、ロンドンという都市の一部ではなかった。
数百年前の「殺意」が泥のように堆積し、現代の光を拒絶する異界。ハヤブサのヘッドライトが照らし出す霧は、重油のようにどろりと濁り、銀色のカウルにまとわりついては、その輪郭を曖昧にさせていく。
音が、死んでいる。
世界を構成するはずのあらゆる振動が消失した空間で、朔夜の鼓膜に唯一届くのは、自らの頸動脈を打つ激しい血流の音と、背中に密着したアリスの震える呼気だけだった。
「……ッ!」
朔夜の視界の端。煤けたレンガ壁の向こうから、影が噴き出した。
増殖した三体の「切り裂きジャック」。インバネスコートの裾をコウモリの翼のように広げた影たちが、物理的な質量を無視して、建物の二階部分からダイブしてくる。その手には、月明かりを呪うような鈍い輝きを放つ、長大な銀刃。
回避の音も、着地の音もしない。
完全なる無音の強襲。
朔夜は反射的にハヤブサを右にフルバンクさせた。
ガリッ――という、ステップのスライダーが石畳を削り取る手応え。音は聞こえないが、ハンドルのグリップを通じて、微細な火花が散る衝撃が伝わってくる。
その直後、アリスが背中で叫んだ。
『左……! 後ろから、二人……!』
その声は、アリスの喉から発せられたものではなかった。
朔夜の術式と彼女の共鳴が、タンデムシートを通じて直接脳内に送り込んできた「感覚の信号」だ。彼女は、音が消えた世界でなお、影たちが「存在することで生じる空間の欠落」を聴き取っていた。
「わかってる……!」
朔夜は左足のシフトペダルを叩き落とし、一速から二速へ。同時に、右手のスロットルを暴力的なまでに捻り込む。
物理的な排気音を封殺されたマフラーから、青白いプラズマの残光が噴き出す。ハヤブサのリアタイヤが、石畳にこびりついた歴史の闇を蹴散らし、瞬時に突き抜けた。背後で空を切り裂いた銀刃が、ハヤブサのテールランプがあった場所を一文字に薙ぐ。
三体の影は、逃がすまいと石畳を蹴った。
彼らは重力という法を無視し、垂直な壁面を、蜘蛛のような速度で這い回りながら、ハヤブサを包囲するように迫ってくる。
迷路のようなホワイトチャペルの隘路。一歩間違えれば、壁に激突して肉片と化す。だが、朔夜に迷いはなかった。フロントフォークを極限まで沈み込ませ、ブレーキを「握る」のではなく「撫でる」ような繊細さでコントロールしながら、幅わずか二メートル足らずの隙間をすり抜けていく。
「……サクヤ、来るわ! 左右から、挟まれる……!」
アリスが朔夜のライディングジャケットを、爪が食い込むほど強く掴む。彼女の視界は恐怖で白んでいるはずだ。それでも、彼女は自分の役割を放棄しなかった。朔夜が戦うための「目」であり「耳」であることを、自らの意志で選んでいた。
(……この女を、こんな場所で終わらせてたまるか)
朔夜の胸に、冷徹なまでの怒りが宿る。
コッツウォルズで見せた彼女の笑顔。自分との時間を「蜂蜜色」だと称した、あの無垢な感性を、こんな汚泥のような殺意の塊に切り刻ませるわけにはいかない。
たとえ自分のような男が、彼女の人生の「一番」に相応しくないとしても。今、この瞬間、彼女をこの地獄から連れ出せるのは、自分と、この銀色の猛禽だけだ。
「アリス、もっと密着しろ! 振り落とされるぞ!」
朔夜はハヤブサのタンクに身を伏せ、アリスの腕を自分の腹部へ引き寄せた。
突如、前方の霧が晴れ、一際巨大な影が立ちはだかった。三体の影が一つに融合し、三メートル近い巨躯となった「殺人鬼の概念」。そいつが構えたメスは、もはや処刑人の大鎌のような威容を誇っていた。
逃げ場はない。左右は高いレンガ壁。後方からは霧が迫る。
「正面突破だ。……歯車、回れッ!!」
朔夜がトグルスイッチを跳ね上げると、ハヤブサの点火タイミングが物理的な臨界を超えた。無音の空間を無理やりこじ開けるように、高周波の金属音が響き渡る。ハヤブサのカウル全体が、朔夜の霊力を受けて青白く発光し始めた。
エンジンのピストン運動が、アリスの心臓のリズムと同調する。ドクン、ドクン、という鼓動が、ハヤブサの排気デバイスを通じて「衝撃波」へと変換されていく。
怪異が銀刃を振り下ろす。
朔夜はブレーキを一切かけず、逆にスロットルを全開に固定した。
「突っ込め……!!」
ハヤブサのフロントタイヤが、地面ではなく「空気」を蹴る。霊的な反発力を利用したウィリー。銀色の塊は、地面と垂直に近い角度で、振り下ろされた大鎌の軌道を「音の防壁」で弾き返した。
激突。
音のない爆発が広場を埋め尽くす。衝撃波が霧を吹き飛ばし、古い建物が震えた。影の巨躯が、ハヤブサが放った「雷鳴」に焼かれ、霧散していく。
しかし、朔夜は攻撃が通じた感触を喜ぶ暇もなく、そのまま路地の出口へとハヤブサを滑り込ませた。
ハァ、ハァ……と、ヘルメットの中で自分の荒い息が聞こえる。
背中には、冷や汗で濡れたアリスの体温。
やがて、タイヤが拾うロードノイズが、唐突に耳に戻ってきた。
「……逃げ切ったか、俺たちは」
朔夜が独り言のように呟くと、背後でアリスが「あ……」と短く息を漏らした。
彼女が耳から手を離し、恐る恐る周囲の音を確認するように顔を上げる。
「……聴こえる。風が……鳴ってる……。サクヤ、音が、世界に戻ってきたわ」
アリスの声は掠れていたが、それは確かに、空気の振動となって朔夜の鼓膜を震わせた。
いつの間にか、ハヤブサの重厚なアイドリング音も、遠くの救急車のサイレンも、日常の音として戻っていた。ホワイトチャペルの外縁。街灯が正しくオレンジ色に灯る、近代的なロンドンの路上だ。
朔夜はハヤブサを路肩に止め、一度大きく息を吐き出した。
バイクを降り、アリスを支える。彼女は顔色が真っ青で、足元が覚束ない。それでも、彼女は朔夜の腕を掴み、強く首を振った。
「ダメ、サクヤ……。まだ、終わってない。……聴こえるの。霧の奥で、まだバラバラになった『殺意』が、歌ってる。……ロンドンの五つの場所で、あの子たちが……泣いてる……」
アリスが指差したのは、ホワイトチャペルだけではない。
かつてジャック・ザ・リッパーが歴史に刻んだ、惨劇の五芒星。
朔夜は、今度こそ逃げられない戦いが始まったことを悟った。
「……わかった。とりあえず、ベーカー街へ帰ろう。……今夜は、まだ始まったばかりだ」
霧の晴れた夜空に、鈍い月が浮かんでいた。
朔夜は弱り切ったアリスを抱き寄せながら、自分たちのタイヤが刻んできた「血の轍」を、苦い思いで見つめていた。




