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神速の陰陽師 〜ロンドン事件簿〜  作者: 風花
第十章:リッパー・ノイズ ―亡霊の銀刃と、午前二時の残響―
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ホワイトチャペルの死角

 ホワイトチャペルの境界線を越えた瞬間、世界から一切の「反響」が消失した。

 ハヤブサが時速百キロメートル近い速度で石畳を叩いているにもかかわらず、朔夜の耳に届くのは、ヘルメットの内部で響く自分の心音と、荒い呼吸音だけだった。本来なら夜の静寂を切り裂くはずの四気筒エンジンの咆哮も、タイヤが水を弾く音も、まるで見えない壁に阻まれるように霧の奥へと吸い込まれていく。

(……聴覚に干渉しているんじゃない。空間そのものが『音』を拒絶しているのか)

 朔夜はスロットルを握る手に力を込め、アリスの信号が途絶えた「ダースト・ストリート」を目指した。

 このエリアに入ってから、ハヤブサの挙動が目に見えて重くなっている。空気の粘度が上がり、まるで冷たい油の中を突き進んでいるかのような抵抗を感じる。霊的な「沈黙」が物理的な質量を持ち始め、銀色のカウルを押し留めようとしているのだ。

 やがて、霧の向こうに黒い塊が見えた。

 路地の中央に、ハザードランプすら灯さず停まっているタクシー。

 朔夜はハヤブサをスライドさせ、その車両の真横に滑り込ませた。

「アリス!」

 サイドスタンドを蹴り出し、バイクから飛び降りる。

 タクシーの運転席側は、ドアが開け放たれていた。だが、そこに人の気配はない。ハンドルには誰かが引き剥がしたような布の切れ端が残り、ダッシュボードの上では、アリスが持っていたはずのスマートフォンが、無残に砕け散っていた。

「……クソが。後手に回ったか」

 朔夜は腰のホルダーから退魔の符を刻んだナイフを引き抜き、周囲の霧を睨みつけた。

 この「無音」の中では、背後から刃を突き立てられても気づくことはできない。五感の一つを完全に奪われた状態での戦闘は、熟練の退魔師であっても死を意味する。

 その時。

 

 パキ、と。

 

 脳髄に直接響くような、硬質な音がした。

 物理的な音ではない。アリスと共鳴し続けてきた朔夜の「感覚」が、彼女の恐怖を捉えたのだ。

「あっちか」

 朔夜は再びハヤブサに跨り、路地のさらに奥――街灯すら届かない、ヴィクトリア朝時代の煤けた石積みが残る隘路へと突っ込んだ。

 迷路のように入り組んだ裏路地。ハヤブサの大きな車体では取り回しに苦労するはずの場所だが、朔夜は「真鍮の歯車」による過給をさらに一段階引き上げ、リアタイヤを意図的に滑らせながら、鋭角なコーナーをドリフトで抜けていく。

 突き当たりにある、かつて貧民窟として悪名高かった「暗い広場」。

 そこには、一人の女性が膝をつき、必死に耳を塞いで震えていた。

「アリス!」

 朔夜の叫びは、喉を震わせるだけで外には響かない。

 だが、その視線の先。アリスの背後に、ゆらりと立ち上がる影があった。

 背の高いシルクハット、汚れ一つないインバネスコート。

 男の形をしているが、その実体は「影」そのものだ。顔にあたる部分には表情がなく、ただ深い闇だけが渦巻いている。そしてその右手には、不自然なほど長く、薄い銀色の刃が握られていた。

 怪異――切り裂きジャックの「残滓」が、音もなくアリスの細い首筋に刃を添える。


「……ッ!」

 朔夜は一速に叩き込み、クラッチを弾いた。

 ドォォォォォォン!!

 物理的な音は消えていても、霊的な爆圧が広場を震わせる。ハヤブサは前輪を浮かせたまま、狂った矢のような速度で影へと突撃した。

 キィィィィィィィン!!

 激突の直前、朔夜は車体を倒し込み、スライダーを石畳に擦り付けながら影を弾き飛ばした。

 アリスの横を銀色のカウルが掠め、怪異が構えたメスと、ハヤブサのフロントフォークが火花を散らす。

 弾き飛ばされた影は、霧の中に溶け込むように後退し、再びその輪郭を曖昧にさせた。

「……サクヤ……?」

 アリスが、焦点の合わない瞳で朔夜を見上げた。

 彼女の耳からは、微かに血が滲んでいた。あまりにも強大な「無音」に晒され続けたことで、彼女の繊細な聴覚器が悲鳴を上げていたのだ。

「喋るな。耳を閉じろ、アリス」

 朔夜はバイクを降りることなく、左手で彼女の腰を抱き寄せ、無理やりタンデムシートへと引き上げた。

 アリスは力なく彼の背中にしがみつき、その温もりに顔を埋めた。

「こいつは……ただの亡霊じゃねえ。この土地が、百年かけて煮詰めた『殺人』のシステムそのものだ」

 霧の向こうで、再び殺人鬼が姿を現す。

 一人ではない。

 二つ、三つ。同じ姿をした「無音の影」が、広場の出口を塞ぐように増殖していく。

 そいつらが一斉にメスを構え、音もなく地面を蹴った。

「ハヤブサ。……全部喰わせろ」

 朔夜はメインキーの隣にある「禁忌」のトグルスイッチを入れた。

 エンジンの回転数が、レッドゾーンを遥かに超えて跳ね上がる。通常ならシリンダーが焼き付くはずの領域。だが、今この瞬間、ハヤブサのエンジンを回しているのはガソリンではなく、朔夜の体内の全霊力と、アリスの震える魂が放つ共鳴だった。

 排気管から、青白い稲妻が漏れ出す。

 音が死んだ世界で、ハヤブサだけが眩い光を放ち、周囲の「無音」を物理的に焼き切り始めた。

「行くぞ。……耳を汚すノイズごと、全部轢き殺してやる」

 銀色の猛禽が、雷鳴の翼を広げる。

 殺人鬼の影たちが放つ銀色の刃が迫る中、朔夜は全開でスロットルを捻った。

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