呼び声は霧に消えて
ロンドンの夜を象徴するのは、光ではなく、湿り気を帯びた「闇」の深さだ。
特に、四月の冷たい雨が上がった後のベーカー街は、街灯のオレンジ色の光さえも霧に吸い込まれ、まるで街全体が巨大な肺の中で呼吸しているかのような、重苦しい静寂に包まれていた。
午後十時を回った頃。 朔夜はガレージの片隅で、ハヤブサの心臓部――その燃焼効率を司るインジェクション・マップの微調整を行っていた。
愛機を「日常」へと戻したばかりの第九章を経て、彼は今、奇妙な予感に突き動かされていた。コッツウォルズで味わった蜂蜜色の安らぎが、あまりにも鮮やかだったからこそ、ロンドンの夜が放つ不自然な「不協和音」が、肌を刺すような違和感となって彼を急かしていたのだ。
「……火花が重いな」
朔夜は独り言を呟きながら、プラグの隙間を確認する。
気象条件だけでは説明のつかない、霊的な湿度の高まり。大気中に溶け込んだ魔力の粒子が、機械の接点を僅かに、だが確実に狂わせようとしていた。
その時、作業台の上に置いていたスマートフォンが、沈黙を破って震えた。
画面に表示されたのは「アリス・レイン」の文字。
彼女は今夜、ロイヤル・アルバート・ホールで深夜に及ぶ特別貸切公演の、専属調律作業に立ち会っていたはずだ。名門オーケストラが愛用するスタインウェイの調律は、静まり返ったホールで数時間に及ぶ集中力を要求される。作業が終われば、協会が手配した専用のタクシーでベーカー街まで送られる手はずになっていた。
朔夜が通話ボタンをスライドさせるよりも早く、スピーカーから漏れ出してきたのは、風の音でも、街の喧騒でもなかった。
『……サクヤ、……聴こえる……?』
それは、絶望の淵に立たされた者が絞り出すような、極限の震えを帯びた声だった。
『……わからないの。タクシーに乗っていたはずなのに……霧が、急に濃くなって……。運転手さんが「近道だ」って言ったきり、一言も喋らなくなっちゃって……。今、外に出たんだけど、ここがどこだか……』
「落ち着け、アリス。GPSを切れ。……いや、その必要もないか。周りに何が見える。音が聴こえるか」
朔夜は既にレンチを放り出し、壁に掛けたライディングジャケットを掴んでいた。
『……音が……ないの。何も……。車のエンジンはかかっているはずなのに、一滴の振動も伝わってこない。……サクヤ、変なの。私の声だけが、暗い水の中に落ちていくみたいに……重くて……』
アリスの言葉が途切れるたびに、通信の背景から「音を吸い込む穴」のような無音が伝わってくる。アリスのような鋭敏すぎる耳を持つ者が「音が聴こえない」と言うのは、単なる沈黙ではない。周囲の因果が、何らかの巨大な「力」によって完全に断絶されている証拠だ。
『……あ……。看板が見えるわ。……「ダースト・ストリート」。サクヤ、私、怖い……。霧の奥で、誰かが……銀色の、長い爪を研いでいるみたいな……「キチ、キチ」っていう、嫌な音が……』
「そこから動くな。今すぐ行く」
通信が途絶えた。
ノイズすら残らない、唐突な遮断。
朔夜の脳裏に、ロンドンの忌まわしき地図が浮かび上がる。「ダースト・ストリート」――それはホワイトチャペル、十九世紀に正体不明の殺人鬼が跳梁跋扈した、呪われた土地の心臓部だ。ロイヤル・アルバート・ホールからベーカー街へ向かうルートとしては、あまりにも不自然な、それこそ「異界」に引き摺り込まれたとしか思えない方向だ。
「……あの馬鹿、よりによってあんな場所に……!」
朔夜はハヤブサに跨り、メインキーを回した。
チェックランプが走り、指先に伝わる燃料ポンプの動作音。だが、それすらも今夜の空気の中では、どこか籠もった音に聞こえる。
「目覚めろ。……お前の主が、呼んでるんだ」
セルモーターを力強く押し込む。
キュルルル……ドォォン!!
ガレージのコンクリート壁を震わせる、重厚な排気音。しかし、朔夜はその音を「通常」のままにはしておかなかった。
彼はハンドルの付け根にある隠しスイッチ――先日の激闘以来、封印していた「真鍮の歯車」と直結する霊力バイパスを、僅かに、だが確実に開放した。
ドシュゥゥ……という、高圧蒸気が漏れ出すような音がハヤブサの底から響く。
エンジンのアイドリング音が、次第に金属的な、鋭い「唸り」へと変質していく。それはもはやガソリンを燃やす機械の音ではなく、主の怒りを宿した野獣の咆哮だった。
ガレージのシャッターが跳ね上がる。
外は、視界わずか数メートルの濃霧。
朔夜はヘルメットのシールドを叩き下ろすと、一速に蹴り込み、クラッチを繋いだ。
ドォォォォォォン!
リアタイヤが石畳を激しく掻き、火花を散らす。銀色の猛禽は、深夜のベーカー街を弾丸のように飛び出した。
ハヤブサのヘッドライトが切り裂く霧は、ライトの光を拡散させるのではなく、むしろ光を汚濁させるかのように黒ずんでいる。
朔夜は加速を止めない。交差点を抜けるたび、ハヤブサのバンク角は深まり、タイヤのエッジがアスファルトを削り取っていく。
彼の脳裏には、コッツウォルズで見たアリスの穏やかな微笑が浮かんでいた。
自分のハヤブサを「優しく笑っている」と言った彼女。その繊細な鼓膜に、今、ホワイトチャペルの汚泥のような怨念が突き刺さっているのだと思うと、スロットルを握る手に自然と力がこもった。
「待ってろ、アリス。……お前の耳を、そんなゴミ溜めの音で汚させはしねえ」
ハヤブサは夜の街を縦断する。
シティを抜け、東へ。
進むにつれ、街灯の数は減り、代わりに周囲の建物は不自然なほど古び、煤けた石造りの「壁」となって朔夜を圧迫し始める。
ホワイトチャペルの境界線を越えた瞬間。
ハヤブサの排気音が、不意に消えた。
タコメーターの針は一万回転を指し、エンジンの振動はハンドルを通じて確かに腕を痺れさせている。しかし、その耳に届く「音」だけが、まるで真空の宇宙に放り出されたかのように、一滴も聞こえてこない。
――リッパー・ノイズ。
それは、街の音を、命の音を、そして存在の音を「切り裂く」ことで成り立つ、史上最悪の沈黙。
朔夜は霧の向こうに、自分を待つ「無」の深淵を見た。
だが、その瞳に宿るのは恐怖ではない。
愛車の咆哮さえも奪われた静寂の中で、朔夜はさらにスロットルを開いた。
音が聞こえないのなら、その「無」を物理的にぶち抜くまで。
銀色の閃光は、死の静寂が支配するイーストエンドの闇へと、一点の迷いもなく突っ込んでいった。
それが、これから始まる「再演」の、最初の一撃となることも知らずに。




